『幻想王国 〜ルン王国復興記〜』





  序章












  「なぜ、ぼくが逃げなくちゃならない」


  おお……一体?


  この世界に何が起ころうとしているというのか。
  彼は叫んだ。


  「どうして……この国のあるじであるはずのぼくが…」


  狂おしく胸をかきむしり、半ば倒れこむように衛士の手に支えられる。
  玉座は暖まらない。
  そこに彼が座ったのは束の間、乞われた謁見に当たるためにしか過ぎず、彼がそうしてそこに座るのはそれで二度目、延べ時間に換算すればあまりにばかばかしいほどに短なものである。
  玉座といっても、それは俗っぽく想像されるような、絢爛たる装飾品に飾られたきらびやかなものではない。地味の貧しい山岳にあるこの小国には相応の、紫檀に彫刻を施し、金飾りを申し訳程度目打ちしたような、頑丈なだけのつつましやかなものである。
  が、幾重もの天鵞絨に遮られた王の間は、厳粛で重々しい空気が常に支配している。
  外界の激しい雷鳴のとどろきすらも、そこまでは届かない。


  「クーデター……だと?」
  「…あまり興奮めさるな……お身体に障ります」
  「ばかな……一体なにが……なにが不服だというのだ」
  「陛下…」


  衛士の手を払いのけた少年が、支えにとすがった深紅のカーテンが危うく揺れた。
  苦渋に満ちた眼差しと、それを裏切るように浮かんだ自虐的な笑みの不調和が、その狂おしい表情のなかに思考の混乱があることをうかがわせている。


  「…なにが間違っていたというんだ、ティシャ? 王室の政策になにか行き届かない、ぼくの気づかないような間違った点でもあったというのか? なぜいまさらクーデターなんだ? 税金は完全に廃止した。病院や学校も整備させた。高い教育も受けさせた。…食事どきに、炊事の煙の立たない家も見当たらない」
  「亡命のご用意を…」
  「父はたしかに暗君だった。酒と女に惑い、政を遠ざけていた。…しかし、やはりそれでも国が豊かでありつづけたことに変わりはない。それなのに、ぼくは玉座を逐われねばならないのか、ティシャ?」
  「時間が惜しゅうございます……おはやく」
  「いやだ! ぼくはここを動かない! ぼくを殺したいのなら、奴等の手で殺させればいい! ぼくを裁いたその手で、自らも裁かれるのが奴等にはお似合いだ……ぼくは亡命なんかしないから!」
  「愚かな反逆者たちは、いずれこの国を食いつぶすことでしょう。王国の秘事を知らぬ者に奇跡を起こすことはかないませぬ。ルンの運命、そのすべての繰り糸の束をお掴みになられるのは聖上陛下おひとりにございます」
  「ティシャ…」
  「この城の抜け道は王家と限られた譜代の臣以外、誰も知りませぬ。すでに亡命の手はずは整ってございます。…さあ、陛下」
  「ああ……城が……やめさせろ、壊させるな! あの砲撃を止めさせろ! 無粋な真似は……ティシャ!」
  「ごめんッ」


  青年の手刀が首筋に入り、少年国王を昏倒させる。
  くず折れた少年の身体を抱え上げ、青年は数名の部下を伴って王の間の隠し扉を急ぎ足でくぐった。






  亡命の夜…。
  むろん、それはクーデターの始まりの夜でもある。
  ルン王国……一九五二年、インドの保護国として英連邦より独立した、ヒマラヤ山脈の南陵、ネパール、ブータンの両王国と並ぶ、周囲三百キロ、人口五十万あまりの立憲君主国家である。
  元来貧しい土地柄でもあり、人の目を引くことのあまりない弱小の小王国であったが、およそいまから三十数年前、先々代国王ビセルガ王の登極とともに、にわかに国際的に脚光を浴びるようになった国であった。
  農林業、工業などはいうに及ばず、目立った産業などないに等しいはずの彼の国が、たった一つの鉱脈を発見して目を見張るほどの発展を遂げたのは、産油国として富裕化したブルネイ王国の例に近い。
  ダイヤモンド鉱脈……インド亜大陸とユーラシアとの衝突が生み出した大山脈ヒマラヤに、世界でもまれなほど豊かなダイヤモンド鉱脈が発見され、ビセルガ王はこれを国の基幹産業として確立するのに成功した。以後アジアでも有数の富裕国として、ルンは幸福な歴史を歩み始める。
  平和で穏やかな『チベットの奇跡』ルン王国は、その夜、建国以来かつてない動乱の嵐にさらされようとしていた。






  秘密の抜け道は、王宮のある山嶺の北斜面にある祠に続いている。
  王宮の城下町といえる都タクサとは正反対の位置であり、そこに出ればイムレ川の細々とした支流に沿ってタクサ郊外の幹線道に落ちることができる。
  いまだ世界は夜の闇に包まれており、夜陰にまぎれて彼らが落ち延びることは比較的容易のように見えた。


  「国道の脇にトラックが隠してある……あそこだ」
  「おまえはエンジンを、われらは道をひらく」


  国道にそろそろと這い出した国王一行の前に、砲撃の光が瞬いて、次の瞬間、轟音とともにルン王宮の主塔が崩壊する。何発目かの照明弾が打ち上げられ。青白い夜空に、その造りの壮麗さゆえにいやがうえにも目立つ白亜の王宮の変わり果てた姿がさらけ出される。炎と煙に巻かれるようにしてたたずむルンの歴史そのものといっていい王宮が、火葬に付される亡骸のようにうつつの姿を失いつつあった。


  「陛下さえ存命であられれば…」
  「いつか必ず」


  うめくように、念ずるように側近たちがその光景を食い入るように見上げるが、いまはもう彼らとてなすすべはない。道の行く手に遠く起こる銃撃に、ただただ身震いするばかりであった。
  そろりそろりと側道にそれて、追跡の目をかわそうとしていた彼らの目の前に、国道を封鎖する即席の検問が現れる。無灯火のままアクセルを踏み込んだトラックは、騒ぎ出す監視兵たちを尻目に検問を突破した。


  「よし、このまま一気に…!」


  あっさりと車止めを突き破れたことで彼らの目に生気がよみがえったが、次の瞬間、左右の土手から正確な狙撃が集中し始めると、またたくまにタイヤやガラスを打ち抜かれてトラックは行動不能に陥った。
  伏せていた兵がわらわらと現れて、トラックを包囲にかかる。
  罠だ。もとより山岳部にあるこの国には、監視すべき主要幹線などたかが知れている。彼らは王宮に砲撃を加えながら、その煙にいぶされて逃げ出てくる獲物を息を詰めて待ち構えていたのだ。


  「……ッ」
  「国王の一行だぞ……捕まえろ!」


  国王を守る近衛兵や側近たちはすぐさま拳銃で応射したが、暗がりでもあり多勢に無勢、しかも相手は正規兵であり、皮肉にも王国の豊かな財政を背景にした最先端の装備でかためている。
  ばらばらと硬い靴底の音が周囲へと散開し、もともと国王を守るためにこそ訓練された迅速さで包囲網を完成させつつある。国王を生け捕りにしようというその意図は明白だった。


  「無駄なあがきを……この荒れ果てたヒマラヤの山襞に、車を走らせられる道などたかが知れている。逃げ道はもうないぞ! さあ、国王を引き渡せ……いさぎよく銃を捨て降伏すれば、革命議会の法廷で申し開きをするチャンスを与えてやる」


  もはや雌雄は決した。
  叛乱軍側に国王一行を放置する意思はない。国王を国の象徴とし、緩やかな改革を望むのか、それとも旧体制側に組する人間すべてを処刑することによって、激烈な変革を断行する腹かは知れぬ。ただ王族が王族として民たちの上にあった時代に、彼らが終止符をうとうとしていることだけはたしかであった。
  かいなのうちに気を失ったままの少年国王を見つめて、ティシャと呼ばれた青年はなにかの決意をおのれに促すように軽く唇を噛みしめ、目を閉じた。近衛兵の長である彼の指示を待つように、悲壮感を漂わせた衛士たちは少年国王に身を寄せるようににじり寄り、呼吸を押し殺した。


  「おまえたちは降伏しろ」
  「ティシャ様!」
  「閣下!」


  青年は、小さな銀のライターに火をつける。
  岩肌に乗り上げたトラックの燃料タンクから漏れ出したガソリンが、青年のかたわらに小さな溜りを作っている。


  「命じてください……伴せよと!」
  「われらも陛下とともに」


  拳銃を威嚇するように敵に向けて散発する。


  「降伏するんだ……巻き添えにはしたくない」
  「われらの生は、聖上陛下のお命を護ってこそのもの」
  「ご命令を……命を捨てよと」
  「捧げよと」
  「新たなる生に王を護る名誉をわれらにお与えください!」


  青年は部下たちを見渡して、苦笑いするように抱えていた片足を大儀そうに投げ出した。流れ弾にでも当たったのか、その足は膝上のあたりからぐっしょりと血に染まっている。
  青年はふたたび腕のなかの少年国王を見下ろして、その呼吸が健全に続いていることを確認すると、少し苦にするように目を細めた。


  「お許しください……ティラカ様」


  青年は強い意志の光を宿した眼差しを敵の指揮官に向けると、ライターを掲げて薄く笑った。その意図を察知した兵士たちがざわめいてわずかずつ退いてゆく。


  「物を知らぬというのはげに恐ろしきことよ。愚かなる王国の民たちよ。王なくしてルン王国は成り立たぬ……君主制度が戴く王を必要としたわけではない、王こそが国そのものであったというのに」


  その流麗な細い指の間から、ライターがすべり落ちる。


  「国は王とともに……そしてわれらもまた」


  小さな火が、燃料に引火した。
  最初は静かに燃え広がり、そして一瞬の空白のあと、少年国王とその郎党を飲み込み爆発した。
  手品の種もなく、また魔法の類いでもなく、彼らは自ら発した炎のなかで身じろぎもせず焼け死ぬことを選んだ。それは客観的には、狂信者の集団自殺でしかなかった。
  叛乱軍の兵士たちですら、その瞬間は恐怖のあまり目を覆った。


  「消せ……火を消せ!」


  狼狽した指揮官の命令ですぐに消火が始まったが、もはや手遅れであることは明白であった。赤々と燃え上がった炎は、少年国王とその郎党を焼き尽くすまでなかなか静まることがなかった。
  その後国軍当局の現場検証が行われ、一体の死体から、王家伝来の三神宝であるヒスイの耳飾り、龍紋の金冠、ハラルドゥーハの佩剣が回収された。所持品の点からもその子供の死体がティラカ王のものであることは明らかであった。
  ルン王室は廃され、王室直系の者たちは次々に暴徒の手にかかって殺害された。ルン・サラシュバティ・ドメチ家の血統は完全に絶えた形となった。






  冷涼の地に厳しい冬が訪れようという一〇月の終わり。
  二〇一〇年一〇月二十七日、午後二一時三五分、軍部によるクーデター終結宣言が出される。
  『完全なる民主化』を旗印にした彼ら軍事政権のまず行ったことは、王家の解体……そして王家資産の国有化だった。
  『チベットの奇跡』……マヌワットのダイヤモンド鉱山は『民営化』の名のもとにDM社……ダムサカ・マテリアル社に非常な安値で払い下げられた。
  経営者のダムサカ・バディはルン王国人であったが、とかくその背後に華僑資本の存在を噂される、限りなく黒に近い灰色の政商であった。









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