『インフリ!!』





  第4章












  ああ、いま自分は幸せだ。間違いなく彼女の幸福バロメータは、あまり長くもない四半世紀の人生のなかで、今日この瞬間、最高の水準に達していたといってよかった。
  奔流のように脳髄内を駆け回る脳内麻薬にすっかり身をゆだねたニーナ・ニオールは、いちいち理性で物事を処理することをとうに放棄していた。おのれのキャッツランド人の血のなかに眠っていた本能がかくも激しいものだったのかと、他人事のように驚きさえしていた。


  「て、提督!」


  まるで生まれたばかりの子供の産毛のように細くてつやつやなシャムミルクの髪が、ベンチの上にくしゃくしゃに乱れて広がっている。
  その白銀の髪のなかに、上気した愛らしい顔が駄々をこねるように右に左にふれ回る。押しのけようとする腕が伸びてきたが、それはほとんどポーズのようなもので排除するのは容易かった。堅く閉ざして侵入を阻もうとする両足を身体で強引にこじ開けて、身体ごと割って入る。顔を近づけると、少年の激しい息遣いが鼻先をくすぐった。
  この子がわたしの運命の相手……ニーナは想いを心のなかで言葉にして、何度も何度も繰り返しそうつぶやいた。守護精霊様がわたしに与えてくださったオトコの子。
  このシャムミルクの髪も、見事なまでに保護欲をくすぐる愛くるしい顔も……琥珀の粒を磨き上げたような澄んだ瞳も、薔薇色の形のよい唇も、柔らかそうな頬も、これからすべて自分のものになるのだ。
  アルコールの力を借りたのは不本意ではあるけれど、こういうことはすべからく最初の勢いが肝心なのだ。
  上からまじまじと見下ろす彼女の眼差しに、少年はおびえたように四肢をこわばらせたが、その行動の自由を握っているのはまさしく彼女の両の手であった。


  (ほんとうに、このまま手折ってもいいのかしら)


  一抹の不安。
  キャッツランドではその特殊な社会環境から、男性を庇護しようとする法制や不文律の道徳観が強い影響力をもっている。女性には子を持つ権利を背景とした諸権利が定義されてはいたが、その行使には常識的な範囲内での一定の制限があった。なにより、気に入った男性を独占するなど、社会通念上……むろん物理的にもありえなかった。


  (ねえねえ、大きくなったら、あたしのアイジンになってくれる?)


  ニーナの記憶の奥底に、刻み付けられた短かなフレーズ。
  物心ついたときから、空気のようにそばに寄り添っていたお隣の幼馴染。どんな顔をしていたのかはもうおぼろげで、ただくりくりとよく動く大きな瞳をした子だったことは覚えている。髪の色は、きれいなシャムミルク。


  (あたしのアイジンになってくれる? 約束だよ。ね?)
  (うん)


  その子は秘密の合言葉を交わしたように、力強く頷いた。
  どんな名前の子だったかあまり覚えていない。ただ、ニケと呼んでいた。
  いつも近所の工場に入り込んでいたずらして遊んでいたふたりは、そのままずっといっしょに大きくなっていくのだとなんとはなしに信じていた。少なくとも、ニーナはそう信じていた。
  十歳になったある日、ニケは黒服の大人たちに連れられて彼女の前から姿を消した。彼は泣き叫んで彼女に救いを求めたが、何か薬のようなものを打たれてぐったりと動かなくなった。駆け寄ろうとしたニーナは、黒服のひとりにはたかれて転がった。


  (この子のことは忘れなさい)


  キャッツランドでは、生まれたオトコの子は十歳まで親元で育てられ、その後政府の施設へと送られるのが決まりだった。子供の基本的人権よりも、まずその生存が優先するというのが政府の見解だった。
  大勢いる友達のひとりがそうして目の前からいなくなって、他の子供たちがいらいらと怒りっぽくなった。彼女もなんだか無性にいらいらするようになった。
  なにかが足りない。言葉にできない、世界の大切ななにかが欠けているような不安感。残された友達はみんな女だった。まもなく彼女たちに最初の発情期が訪れて、いらいらの正体がうっすらと分かるようになった。


  (なんであの子を連れていっちゃったの!)


  大勢の友達とは仲がよかったけれども、発情期になるとわけもなく喧嘩をした。爪を立てて引っ掻きあって、血まみれになることも茶飯にあった。身中にもたげてくる激しい欲求を満たしてくれる相手は大人たちが奪い去ってしまった。まわりがいらいらしているから、彼女もいっそういらいらした。


  (どうして女しかいないのよ! あたしはどうすればいいの)


  ひとつ年をとるたびに、身体は成人へと近づいた。
  発情期は期間が長くなり、その代わりに身を焦がしそうな激しさは薄まっていった。身体が刺激に慣れていくためであるらしい。十四にもなると、いっぱしの大人のように平静とした顔で発情期をやり過ごせるようになった。
  世の中には、いろいろと便利な道具があった。少女たちはホロラヴァーを手に入れて仮想の恋愛を楽しんだり、幻覚性の強い安価な合成マタタビを服用してラリってみたりした。お金さえあれば街でホンモノの男娼と交渉も持てた(らしい)し、電子マーケットには直接彼女たちに満足を与えるべくいろいろな玩具が非合法にではあるが売られていた。
  たいていの少女が、その年頃になると一通りそうした火遊びを経ておのれに与えられた現実というものを理解するようになる。恋愛とは誰もが自由に手に入れられるものではなくて、運のいい一部の人間だけが手に入れられる限られた特権なのだ。
  連れさらわれて集められた少年たちは、成人までの十年間、国の施設で教育されたのち、ゆるやかな監視付きで社会に戻される。そのオトコの子たちは、娑婆に出てきたときにはすでに誰かの『お手つき』になっているのが常だった。彼らをアイジンにする幸運を得たのは、政府の要人であったり、高級軍人であったりした。彼女らは職権を乱用して、囲われて自由のない少年たちに強権づくで接近し、関係を結んだ。役得といえば聞こえはいいが、ようは世の中の約束事を踏みにじって、自分たちの都合がいいように制度を捻じ曲げているのだ。狡猾な社会的強者である彼女たちを、キャッツランドの一般市民たちは『マン・キャリアー(人さらい)』と呼んだ。
  初等科を卒業し、将来の進路を聞かれる少女たちは、同性同士の恋愛に目覚めでもしないかぎり、たいてい上級公務員の登竜門たる予備院か、キャッツランド軍の士官養成校である中央士官学校を進路に希望した。むろん、その狭き門の競争率は殺到する志望者たちによってさらに高くなった。
  ニーナはひたすら勉強した。ほかの少女たちが夜な夜な怪しい火遊びで嬌声を上げているあいだに、数式や銀河標準語の単語を懸命に覚えた。
  やがてその努力が報われて、ニーナはキャッツランド中央士官学校に入学した。軍人への道を選んだのは、幼くして引き離された幼馴染みが士官学校の二科にいるという噂を聞いたからだ。


  ニケに会いたい。


  同じ学校に通うのなら、もしかしたら卒業を待たずに再会する可能性もあるだろうし、むこうが彼女を覚えていれば、あの約束のことも思い出してくれるかもしれない。
  最初は幼馴染みとのドラマチックな再会を夢見ての学園生活であったが、仕官学校内の仕組みに通じるにつれて、彼女の絶望は深くなっていった。
  彼女の入学した『一科』と幼馴染みが暮らす『二科』とのあいだには、決して越えることのできない監視付きの巨大な壁があり、合同の授業も交流のイベントも皆無だった。一科の生徒はたいてい二科との交流を強引に求めようと夢想していたが、むかし二科の寮に侵入しようとした一科の学生が、警備兵の制止を振り切った挙げ句射殺されたという伝説があることを知ると、よけいなことを考えなくなった。射殺された生徒がいるという伝説が嘘とは思えないほど、二科の警備は偏執的なまでに厳しかったのだ。
  半分軍隊のような厳しい学校生活がまたたくまに年単位で過ぎていった。
  逢えないことへの心の痛みが『激痛』から『疼痛』へと変わっていったある日、ニーナはある噂を耳にした。


  「シャムミルクの髪の美少年が、どこかの要塞司令官に指名されて任官した」


  情報の裏をとると、それはまちがいなく彼女の幼馴染みのニケ少年だった…。






  (今度は、わたしの番だ)


  ずいぶんと長い時間を費やした。学生時代と正式任官したのちも一緒にすれば、一○年以上も経っていることになる。ここまでの苦労を思えば、この少年を手に入れることも当然すぎる報酬だった。


  「提督! お願い…ですから」
  「あんまり大きな声を出してわたしに恥をかかせないでちょうだい。この公園は先客がけっこういるんだから。大丈夫、恥ずかしがらなくてもこのベンチは周りからは見えないわ」
  「そういう問題では……あッ」


  この少年はだいぶん敏感に生まれついているらしい。
  ニーナはぺろりと舌なめずりして、彼のドレスを留めている紐をひとつずつほどき始めた。勢いにまかせて引き裂いてしまいたい衝動を押さえるのに苦労する。ここで破いてしまっては、あとでこの少年の着る服がなくなってしまう。


  「ああ、わたしのエディ…」


  いままさに少年の身体に飛び込もうとしたニーナ・ニオールの桃色の視界に、そのとき突然得体の知れない異物がのそりと闖入してきた。黒々として、ぬめぬめで、いぼいぼの物体。大きな四つの目が、まるで猫のそれのように闇のなかに光った。


  「提…督?」


  数瞬、凍りついたように動かなかったニーナが、我に返るや激烈な反応を示した。ほとんどめくらめっぽうに、後ろに向かって飛び退いたのだ。
  屋上公園のそこここには、補修用なのだろう、迷彩シートをかぶせて作業用の足場が隠してあった。
  ニーナの背中がその隠された足場にぶち当たり、立てかけてあっただけの足場の鋼材が彼女の上に次々に倒れかかった。


  「ニオール提督!」


  少年の悲鳴を聞きながら、ニーナは「なんでニーと呼んでくれないんだろう」と関係のないことを頭に上らせて、苦い笑いをした。
  ほどなく、彼女の視界は落ちかかってきた大量の鋼材にふさがれていった。






  「チュチュ主席航海士、無事任務完了いたしました……って、やりすぎちゃった?」


  手にしたホロカメラのスイッチを切ろうとして、間近に起こった少年の悲鳴に、反射的にレンズを向ける。少年のきれいな顔が涙でくしゃくしゃになっているのをレンズ越しに見て、きゅうんと胸が締め付けられる。


  「百万ビマータの泣き顔だね、こりゃ。シャーリーが見たら、悶絶モンだ」


  少年……艦隊司令官の専任副官が、鋼材の下敷きになった上官のほうに何とか手を伸ばそうとしている。が、そのままでは指先すら触れられそうもない。
  副官の少年は、手近な鋼材から撤去にかかった。足場の鋼材はその見かけ以上に重たいものだ。案の定、少年は持ち上げることもままならず、せいぜい邪魔にならないよう手前側に倒すことぐらいしかできなかった。いくつか障害物をどかすと、なかでうずくまっている艦隊司令官の姿が発見された。


  「提督! 大丈夫ですか!」
  「なんでこんなところにあのキモい生き物がいるのよ〜っ! それに何、この足場は! 迷彩シートなんか掛けちゃったら分かんないでしょ」
  「お怪我はありませんか? 出られそうですか?」
  「これだけ盛大に音立てたのに、みんな求愛活動にご執心みたいね。誰も出てきやしない……もしかしてホントにここにはあたしたちだけしかいないのかしら? エディ、ちょっと手を貸して…」


  素直に手を伸ばした少年の姿が、不意にレンズの視野から消えうせる。
  チュチュは慌てて立ち位置の移動を図る。むろん録画は続行中だ。
  植え込みの暗がりの中、ホロカメラを構えてカニ歩きするチュチュの視界に、ふたたび被写体のふたりが入ってきた。
  そして彼女のカメラを構える手に、必要以上に力がこもった。


  「や、やめてください。提督」
  「いいじゃない、この足場がいい目隠しになるわ。こっちにきて、ほら!」
  「提……痛いっ」


  艦隊司令官ニーナ・ニオールの不屈のすけべえ根性に、チュチュは軽く感動を覚えた。引き込んだ少年を下に敷くように抱きすくめて、噛み付くようにそのうなじに顔を押し付ける。吸っているのか噛んでいるのか、少年は「痛い痛い」と悲鳴をあげるが、ニーナはすぐには解放しなかった。
  キャッツランド女の根性に感銘を受けてチュチュは思わず撮影に没頭しそうになったが、少年の悲鳴が「痛い痛い」から懇願口調の「お許しください」に変わってくると、さすがに少年の貞操の危機が迫っていることを認知した。


  「ケロロン二等兵、出撃よ〜ぅ」


  黒くぬめり光る物体を、えいやと鋼材の隙間へと放り投げる。
  ハンカチで粘性の体液をぬぐって、チュチュはふたたびホロカメラを構えた。暗がりでくんずほぐれつもみ合っている上官とその副官の姿を、カーリカーン五○○名の『副官殿ファン』が待っているのだ。いやそれどころか、艦隊の市場規模で計れば四○万余の潜在的ユーザーがいるはずで…。
  突如、艦隊司令官ニーナ・ニオールの悲鳴が屋上公園にこだました。
  なかで暴れだしたニーナのせいで、不安定な均衡を保っていた鋼材が次々に倒れだした。一瞬はやく転がり出てきた少年副官が、間一髪難を逃れたようだった。


  「提督!」


  もともと最初の鋼材でテントのようにスペースが確保されていたニーナのところはさいわい無事のようであった。
  肩で息をしている少年副官に、ニーナは哀れっぽくふたたび救助の手を求めたが、さすがに一度学習したことを繰り返すほど二科の主席卒業者は愚かではなかった。
  思い出したように目じりの涙をぬぐって、少年副官は立ち上がった。
  さて、副官殿はどんなリアクションをするのだろう? 固唾を飲んでレンズを向けるチュチュに気づいているのかいないのか、少年副官はじつに絵になる玄妙な表情で、セリフひとつなくして複雑な感情の動きを表現してみせた。


  「…お怪我はなさっていませんね?」


  断定するわけにはいかなくても、有無を言わさぬ強い口調で少年副官は尋ねた。ニーナは少し驚いたように瞬きしたが、相手を無用に心配させまいとしてか「大丈夫」と応えた。


  「よかった。自分は、助けを呼びにいってまいります。基地の軍医も呼んでまいりますから……そのままじっとしてお待ちください」
  「あっ、エディ!」


  すっと、額に当てられた手が、宙軍の最敬礼であることに気づいたチュチュは、状況を把握しかねて顔をしかめた。


  (なにか会話でもあったのかしらん) 集音マイクの感度を最高に引き上げて、少年副官の顔を大写しにする。ひそとしたつぶやきが、クリアに彼女の耳に飛び込んできた。


  「やっぱり自分には向いていなかったみたいです。提督」
  「ちょっと、エディ!」


  (なになに、なんの話?)


  「あの、今度はもっと分別のある男の子をお探しになったほうがよいと思います。自分は軍人に向いてはいなかったんです。憧れは、本の中だけにしておけばよかった…」
  「待ちなさい! はやまらないで、エディ! ヴィンチ少尉!」


  予想外の愁嘆場に、特ダネとばかりにぺろりと唇をなめたチュチュは、その場から立ち去ろうとする少年副官の後を追うべく物音も立てずに植え込みからすべり出た。
  乱れたセリカドレスの紐を結びながら歩く少年副官のようすが、やけにナマっぽくなまめかしい。自然、生唾が口内にあふれてくる。


  「ヴィンチ少尉〜!」


  艦隊司令官ニーナ・ニオールの哀れっぽい叫びが後ろから届いたが、少年副官はすこしだけ立ち止まったのみで、けして振り返ろうとはしなかった。そして、その叫びから逃げ出すように駆け出した。


  (『提督&副官殿・ついに結ばれずして破局か!』てなところかしらん)


  自分で破局させておいて、まったく責任を……そもそもおのれの行動に問題があったことすら自覚のない、カーリカーンの主席航海士であった。




  * * *




  血管の中を、血の代わりにアルコールそのものが駆けめぐっているようだ。
  走り出すたびに、酩酊感が深刻になる。こみ上げてくるものを排水路に吐き出して、胃の中のものがなくなってしまってからも、血中の酒精が彼を解放しようとしなかった。
  そのままそこでぐったりしたくなるのをこらえて、壁に手をつき立ち上がる。薄暗い路地を見やると、何対かの視線とぶつかった。


  「よう、ねえちゃん。どうかしたのかい?」


  なんで自分がそんなにも人の注目を浴びているのか理解の及ばなかったエディエルは、おびえたふうに通りの出口へと急ぐ。声をかけてきたムートン人の酔っ払いは、逃げる彼につられるように身をひるがえし、彼の腕をとらえようとする。酔っているとはいえエディエルのキャッツランド人としての運動能力は、ムートン人のそれを上回っている。足元をふらつかせながらも、酔っ払いの手の届く範囲から逃れ出る。
  が、失われたバランスが急に戻るはずもなく、彼は路面のゴミに足をとられてくるりと転がった。キャッツランド人は本能的に受身を取るのに長けているが、酔いにはかなわない。したたかに尻餅をついて、彼は短く悲鳴をあげた。
  打ちつけたお尻をさすりながら、エディエルはスカートのスリットから大胆に露出している自分の足を見て、いま身につけているものがなんであるかに意識が及んだ。


  「変わった服じゃねえか。例の流行の服だろう? なんかイベントでもヤッてんのか?」


  このムートン錨地はキャッツランド宙軍の軍港であるが、港内にはムートン人の働き手はいくらでもいる。民間に開放された歓楽区画ではむしろ常駐するキャッツランド人よりもその割合は多かっただろう。宙軍相手の商売人も入れかわり立ちかわり大勢出入りしている。なかでも広く民間に解放された歓楽街は、住人のほとんどがムートン人である。
  特徴のあるキャッツランド人の耳がつんと飛び出しているのに気づいても、からんでくる酔っ払いに躊躇の色はない。この軍港にいるキャッツランド人は当然のことながらたいてい軍人であったが、さすがに夜道を派手なドレスを着て歩くようなキャッツランド人は彼らの認識のなかでも一等に除外されるべき者たちだった。つまりは、キャッツランド人相手の娼婦である。


  「ばぁか、こいつらと本気でそんなことしようもんなら、息子を食いちぎられて病院行きになるぞ!」
  「やれやれ、やっちまえ!」


  制止しようとする者、無責任な煽動をする者、立ち止まってこの一幕の騒動を見物しようという者……またたくまにできた人垣にはムートン人ばかりが目立つ。もしもキャッツランド人がこのなかにひとりでもいたなら、敏感な嗅覚で襲われているのが同朋の少年であると見抜いて、すぐさま助けに入ったであろう。だがこの界隈はムートン人たちの居住区なのであろう。道に不案内なばかりに、エディエルはとんでもない場所に紛れ込んでしまったようだ。
  目線がからんだまま、にらみ合いになっていたエディエルと酔っ払いであったが、ふとその緊張感が途切れた。エディエルの瞳からぽろぽろと涙が零れ落ち始めたのである。


  「どうしていつも、こんなことばかり…」


  その涙に気勢をそがれた酔っ払いが「どうして泣いているんだ」とたずねると、エディエルは「そんなことどうだっていいでしょう!」といらだたしげに叫んだ。こらえられなくなった涙を手でぬぐいながら、ゆっくり立ち上がったエディエルは、集まってくる視線などお構いなしに大通りへと歩き出した。


  「どうした? 迷子にでもなったのか? さてはこの港には来たばかりなんだろう、帰る道が分からなくなって…」
  「ほっといてください」
  「なあ、あんたみてえなかわいいねえちゃんが一人歩きするにゃ、このあたりは物騒だぜ。なんならオレが店まで送っていってやろう。店の名前はなんてえんだ? たいていの店なら名前さえ聞けば場所もわかる。オレはナイトウォークのスベンってんだ。このあたりはおれらの庭みたいなもんさ。店まで送ってってやるよ」
  「店…?」
  「送ってったら、オレがあんたの今日一番の客になってやらぁ! 今日は特別にボーナスが出て金持ってんだ」


  その酔っ払い、よく見ればそれほど年もいっていない。せいぜい二五、六の青年である。色白の赤ら顔が多いムートン人にしては肌が焼けていて、背も高い。


  「おい、ほどほどにしとけよ。…集まる時間は分かってんな?」


  人垣の中に青年の連れが幾人かいるようだ。手を振る者、目で合図する者がちらほらと見受けられる。老若男ばかりだ。


  「ぜってえ遅刻すんじゃねえぞ、お頭に殺されっからな」
  「おう、分かってるって!」


  スベンと名乗った青年は、遊び慣れたふうにさっとエディエルの手を取ると、率先して歩き出した。一見して優男だが、太いまっすぐな眉が独特の個性のようなものをその容貌に与えている。言葉は伝法でくだけているものの、教養も水準以上に備えていそうだった。


  「…さあ、どこの店だ。なんなら、そのへんの空き屋でだっていいんだぜ。そうか、そっちのほうがあんたにゃ儲けが大きいか? よし、そうしよう。前の客よりもでっかく吸いアトつけてやるぜ」
  「えっ?」


  言うが早いか、青年はエディエルの手をとらえて怪しい暗がりへと歩き出そうとする。青くなったエディエルは手を振り解こうともがいたが、青年はがっちりと掴んで放さない。


  「やめてください! 放してッ」
  「もう客はとってんだろ? 派手にアトつけてんじゃねえか、うなじによ」


  青年の言っている『アト』がなんであるか気が付いたエディエルは、真っ赤になって首筋を手で覆い隠した。彼の過剰な反応に、「おや?」と青年は首をかしげる。ややして青年は納得顔になって、「まだ新米か」とつぶやいた。
  またぽろぽろと涙をこぼし始めたエディエルに、青年は顔をしかめてようやく手を放した。青年はほんとうに彼のことを娼婦か何かだと信じきっているようだった。アザになりそうなほど強く握られていた手首をかばいながら、エディエルは後じさった。隙をみて逃げなければ。


  「めそめそ泣くな。わかった。とりあえず店に送ってやっから、店の名前を教えな! 『キャッツスタイル』か、それとも『麝香館』か、大方その辺なんだろう? キャッツランド人の若い娘はたいていどっちかの店だもんな。それ以外なら…」
  「宙軍事務局」


  エディエルはぽつりと言った。


  「宙軍…? て、キャッツランドの駐留本部か?」
  「自分の行きたい場所は宙軍の事務局です。そんな汚らわしい店なんかじゃありません!」
  「おいおい、汚らわしいはねえだろ。…って、なんで宙軍なんだ? 宙軍っていや、キャッツランドの軍隊だろう? ああ、そこに指名出張で呼ばれてるのか、あんた」
  「違います! 自分はキャッツランド第九艦隊司令官付き専任副官です。…お願いです。どうかもうほっといて下さい!」


  エディエルは無意識に腰のあたりをさぐって、すぐにおのれがいま身につけている服がなんであるか思い出した。むろん常に腰に携行する武器も持っていない。
  まるで格闘家のようにいっぱしに身構えたエディエルをみて、青年は口笛を吹いた。


  「こいつは驚いた。あんた、軍人か」
  「動かないで。でないと…」
  「でないと、…なんだ?」


  無造作に青年が動いた。
  キャッツランド軍人たるもの、護身の体術ぐらいはひととおり修めている。身体能力に優れるキャッツランド人が格闘術を身につければ、それだけで敵対者にとって大いなる脅威となるだろう。エディエルの足払いは、的確に青年の上体バランスを崩した。
  そのまま独楽のように回転して二の蹴りを放ち、それが防がれたと見るや、素早く青年の背後に回る。エディエルはそこで肘を押さえにいったが、突然青年の手元に閃光が走り、気がついたときには身体を制圧されていたのは彼のほうだった。
  首筋に、硬く冷たい感触がある。刃の厚いナイフだった。


  「第九艦隊司令官つき専任副官だと?」


  青年の表情は、まるで役者のひとり芝居のように一変していた。
  海賊の手が無造作にエディエルの服の襟元に伸びた。抵抗さえも忘れてしまったようなエディエルのセリカドレスをはだけて、首につった認証ペンダントを取り上げる。


  「エディエル・ヴィンチか。…少尉さまたぁ、こりゃ驚いた。ほんとうにあのあまの専任副官かもしんねえな」
  「あなたは……ムートン人じゃありませんね?」
  「なんに見える?」
  「肌が宇宙焼けしているし……言葉も辺境宇宙のなまりがあるし……たぶん宇宙船乗りでしょう? それもまっとうな商売をされるような人じゃないですね?」
  「まぁ、まっとうたぁいえねえけど。もう分かってんだろ? 宇宙船乗りでまっとうな仕事をしてねえ奴らっていや、たいていひとつっかねえだろ。そういう回りくどい言い方はやめな」
  「やっぱり、その、海賊のかたですか?」
  「おいおい、『かた』はねえだろ、『かた』は。海賊の『かた』なんて呼ばれたなぁ初めてだぜ。凶暴なネコ女にしちゃ、ずいぶんとお上品じゃねえか」
  「ここはれっきとしたキャッツランド駐留軍の錨地ですよ! どうしてこんなところにあなたのような人間が出入りを…」


  言いかけて、エディエルは危うく舌を噛みそうになった。強引に腕を引っ張られたためだ。物陰に引き込まれるなり、エディエルは海賊に胸倉を掴みあげられた。ほとんど空気のように軽がると持ち上げられたエディエルは、息を詰まらせてじたばたともがいた。


  「オレらはあんたの提督さまを殺す。クンロン党はけっしてあの日のことを忘れたりなんかしねえ! 大老を殺された仇は必ず果たす」
  「どっ、どういうことですか…」
  「やられたらやり返す……それが海賊の掟ってやつさ。あんたの上官、ニーナ・ニオールのクソあまをぶっ殺すってことだよ」
  「クンロン・シンジケートの殲滅戦をおっしゃっているのなら、それは逆恨みというものです。あなたがたが辺境宇宙でどれだけの無辜の市民をなぶるように殺してきたか! 提督は正義の行いを…」


  言ううちに、海賊の手に万力の力がこもった。
  息が詰まってみるみる赤くなったエディエルの顔が、必死に横に振られる。
  このおそるべき凶行の計画を知ってしまったからには、なにがなんでもこの危地を脱し、友軍に情報を伝えなければならない。つい少し前に、おのれを乱暴に蹂躙しようとした上官の顔が浮かんで、噛みしめた歯の間からうめきが漏れた。


  (それとこれとは、違う話だ)


  たとえ軍を辞めることになっても、自分が栄光あるキャッツランド軍人であるという事実と誇りから無縁になるわけではない。
  エディエルはそのたぐいまれな身のこなしで身体を振り、ひねりを加えて青年の手をもぎ放した。そのままひらりと後転して着地する。


  (提督におしらせしなくては!)


  すぐさま身を翻そうとしたエディエルの足を、青年の足が払った。回転するように転がったエディエルが体勢を立てなおす間もなく、すばやく回り込んだ青年のボディブローがエディエルのわき腹をえぐる。


  「えぐうっ」
  「こんな別嬪を、かわいがりもせずに殺しちまうなぁもったいねえしな。いまは殺さないでおいてやる。コトが終るまで、ここでじっとしていろ」


  青年は昏倒したエディエルの身体を抱え上げ、小道のわきにあった扉を足で蹴り開けると、荷駄でも扱うように乱暴に彼の身体を放り込む。エディエルは派手に地面を転がされたが、うめくだけで意識を取り戻さなかった。


  「そうだ、これが終わったらそのままさらって、オレの女にしてやろう。あのニーナ・ニオールの愛人と思や、いたぶるのもさぞや痛快だろうな」


  闇の向こうで青年の笑いが起こり、そしてそのあとは何も聞こえなくなった。






  「大丈夫ですか! 中将」


  崩れた建築資材のなかから助け出されたニーナは、身動きするたびに舞い上がるホコリに大きくくしゃみして、そばのベンチにどうと座り込んだ。


  「この工事はなんなの? 足場ぐらいちゃんと組んでおきなさいよ!」
  「公園の定期補強工事で……なんで急に崩れたりしたのか皆目見当もつかないんですけれど、ともかく業者には当局から厳しく注意をいたしますので……それよりもお怪我はありませんか? あんな硬い資材が落ちてきたんですから、どこかお怪我されているはずです」
  「そりゃあ、打ち身のひとつやふたつはあるわ。さいわい守護精霊のご利益で、予定に支障をきたさない程度には身動きも利くけどね。…それよりも、この足場のこともあるけど、なんなの、この公園はいつから動物園になったの!」
  「…はっ? 動物園、といわれましても」
  「なんでこんなところにあの醜悪な生き物がいるのよ! あのヌラヌラのネトネトで、重力に逆らえないぶよぶよのおなか……泣き声まで品性のかけらもない史上最悪の生き物! ああ、おぞましい」
  「これ……ですか? ただの四つ目ガエルですが…」
  「あなたと主観の相違について論議するつもりはないわ」


  受け取った濡れタオルで顔を拭きながら、ニーナは周囲の兵士たちのあいだを見回して、そこに探す姿が見受けられないことに軽いショックを受けた顔になる。


  「ヴィンチ少尉は?」
  「提督の専任副官殿でございますか? いえ、ご一報いただいたときはカメラ越しに見ましたけど、そのあと軍医のほうにも当たるとおっしゃられて……こちらでご一緒されていたのですか?」
  「あ、いや、いいの」


  脳裏になにかを反芻するように目を閉じたニーナは、最初深刻そうに眉間に皺を寄せていたが、ややして兵士のひとりから端末を奪い取ると、だれか駐留軍の要人と手短に話をつけたようだった。その憔悴気味の笑みに警備兵たちは首を傾げたが、すぐに本来の任務を思い出したように瓦礫の山となった公園の片付けに取り掛かった。


  「わたしにことわりなく退役しようったってそうはいかないわよ。あなたが仕える上官が、どれだけ軍内で影響力を持っているのかも知らないで……事務窓口は押さえたから、もう手続きはできないわよ。エディ」


  ニーナは怪我の具合を試すように両肩を回すと、思いきり伸びをした。打ち身程度はあるにしても、動きを妨げるような大怪我はなさそうである。


  「タンカはまだなの? 待ってるんだけど」
  「は、タンカがご必要ですか? 足のほうにお怪我はなさそうでしたので…」
  「このあとの会談は怪我のためキャンセル。そうシグラ閣下に連絡してちょうだい」
  「あの、よろしいので?」


  えらそうに頷いて、ニーナは「それどころじゃないのよ」と小さくつぶやいた。









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