『インフリ!!』





  第5章












  最初の爆発が起こったのは、ムートン時間の午後七時三○分ごろ。第九艦隊が寄港してから五時間後のことである。
  場所は桟橋と基地施設とをつなぐ連絡路。その連絡路が次々に爆破された。


  「何が起こったんだ! 桟橋が流されるぞ!」


  吹き溜まりにたまった木の葉が、突風でいっせいに舞い上がるように、千の艦船が桟橋から逃げ出して虚空に入り乱れる。自動で安全装置が働き、味方同士の衝突こそ回避されてはいるものの、この混乱した宙域から離脱するためにはそれぞれの航海士たちの相当量の手腕が必要とされた。
  第九艦隊旗艦カーリカーンも、その混乱のただなかに巨体を漂わせている。


  「この宙域は危険です! 僚艦には離脱宙域を指示して退避させなさい! 本艦は不測の事態に備えて第一級警戒態勢に移行! 各砲門、安全装置を解除!」
  「主席航海士が錨地に降りたままです! 次席航海士に権限引き継ぎます!」


  艦隊司令、旗艦艦長不在の旗艦を指揮するのは、ジェダ・アーリ次席幕僚である。本来ならば旗艦艦長に次いで高位にある主席幕僚のクオン・ニムルスの役どころであったが、彼女の姿はカーリカーン艦橋になかった。


  「勢いあまって飛び出してくるような船籍不明艦がいたら、かたはしから宇宙ゴミの仲間入りをさせてやりなさい! 艦隊司令部は現況を戦闘状態と認知、危機回避に伴う攻撃はすべて容認されます」


  またたくまに、二、三隻の民間船が火球と化した。たまたま付近を通りかかった不運な民間船であったのか、はたまた敵の偽装艦であったのかはもはや確認しようもない。キャッツランド軍は酷薄なまでに自軍の安全を最優先した。


  「駐留軍本部に連絡。旗艦および僚艦の退避は完了。これより陸戦戦力をもって錨地の敵勢力掃討を開始する」


  ジェダ・アーリ大尉が言葉を発し、それを通信士が復唱する。


  (これはどういうことなの?)


  司令官の指揮卓で、ジェダ・アーリはつぶやいた。
  非常事態で緊張の極にある艦橋のなかで、彼女だけは別種の混乱にみまわれていた。


  (規模が大きすぎる……たった十数人程度の海賊だけで、こんな大規模に…)


  誰にもその様子をうかがい見せない指揮卓の高みで、彼女はモニター群に見入った。
  巨大な錨地が次々に壊されていく。切れた連絡路が、尻尾を掴まれたくちなわのように身をくねらせて、ゆっくりと錨地の本体である衛星に落下していく。モンク戦役のもっとも重要な戦略拠点のひとつが、目の前で失われていく。
  こんなことがあるはずはない。やつらが多少派手にはね返ったところで、せいぜいあまり重要ではない建物のひとつやふたつを爆破するのが関の山であるはずだった。


  (監視はなにをしていたの! 役立たずどもが!)


  桟橋のリングが、残り少ない連絡路にあやうくその身をささえられている。軍用通信は、すでに怒号の嵐のようだ。駐留軍の施設のいくつかも襲撃を受けているらしい。


  「ニムルス少佐に通信を」


  見ている前で、また連絡路のひとつが中ほどで爆発し、内部の気体を噴出しながら衛星へと落下をはじめた。もうあの桟橋は、しばらく使用に耐えないだろう。
  侵入した海賊が十数人? ばかばかしい、この騒動の規模からみて、数百は侵入しているだろう。ジェダ・アーリは、数十桁に及ぶパスワードを打ち込んで、極秘回線をひらいた。






  その同時刻、ムートン港桟橋。


  「こちらシーバ隊。ムートン人を三人、その……突然出てきやがったもんですから、思わずミンチにしちまいました! いったいなにがどうなってんのか……少佐! 聞いてらっしゃいますよね!」
  「がなるな。十分に聞こえている」
  「大変な『気分転換』になりましたね! 予備の機体を貸し出しましたが、こうなったら少佐にも肉体労働していただきますからね! 第一級警戒なんで現場判断優先で戦力を展開します。少佐にはわたしの指揮下に入ってもらって、責任の発生しそうなとこだけ判断仰ぎますから!」
  「ああ、任せる」


  第九艦隊機甲猟兵部隊の虎の子、装甲機動ユニット『ウェルカムキャット』の機体内部は、宇宙服のそれと大差ないほど狭く限られている。制御籠手から指を抜き、額にかかった前髪をまとめるだけでもずいぶんと手間がかかる。ニムルスは最近かき慣れない汗を覚えて、わがことながら失笑した。
  なんで艦隊の頭脳たる幕僚が、現場で慣れない機械を持て余して冷や汗をかいているのか。何かが『起こる』ことは知っていたし、それが何を目的として起こったかも知っている。パニックにさえ陥らなければ、解決のための一手一手を誤ることもない。
  手で顔をこすったあとには、ぬぐったような無表情が残った。


  「ここは港湾ブロックの安全を最優先に。制圧を確認した後に、居住ブロックへ進入、面を確保しつつ駐留軍本部建物を目指すのが常道だろうな」


  ニムルスのつぶやきに、シーバ隊の隊長が即座に応ずる。


  「重火器の使用許可は?」
  「キャッツランド人の逃げ足を考えれば、そのへんに残っているのは海賊どもとどんくさいムートン人だけだ。遠慮せず臭いと思った建物は破壊しろ。ムートン人に多少死人が出てもかまうな。やつらはノーカウントだ。海賊どもをいぶり出す手段は問わない」


  蜂の巣をつついたように行き交うキャッツランドの軍用無線のなかに、そうした剣呑なやりとりが日常会話のように平然とかわされているのだが、むろん軍用の高度な暗号処理によって一般に知れることはない。もしもその会話を傍受したムートン人がいたなら、いまごろ憤りと激しい恐怖とに心を引き裂かれていただろう。


  「ニムルス少佐。こちらドギー隊。重火器の使用がОKだそうですが、ウチの大花火『大隊殺し』も使ってよろしいんで? 場所によっちゃ、一発で外殻までもっていっちまって気密が持たなくなりますよ」
  「まあ……そうだな。派手にぶち壊しさえしなければかまう必要はないだろう。どうせ酸欠で死ぬのは海賊とムートン人だけだ。それに錨地の修復費用のほうも心配などすることはないぞ。女王陛下から現政権支持のリップサービスのひとつでもしていただければ、いつものようにくムートン政府が負担してくれるだろう。彼らはどんくさいが、その点ではとても気前のよい友人だ」


  隊員たちの野卑な哄笑には応じず、ニムルスは黙って制御籠手に指を通した。計器の照明に照らされたその顔は硬かったが、その眼差しだけはかすかに興じたような色をにじませている。


  「掃討戦を開始する」
  「了解! シーバ隊いくぞ」
  「ヤーッ!」


  交わす隊員たちの言葉に、笑いの震えが混じる。彼女たちは性的な興奮にも似た昂ぶりになかにある。肉食種族であった祖先の血のなせる仕業なのか。
  停泊中であった第九艦隊から、相当数の乗員が休暇を楽しむべく錨地へと下船している。キャッツランド人ならとっくに逃げ出していると言い切っておきながら、ニムルスは同胞の死傷者が少なからず出ていることを見越していた。いくら身体能力に優れているとはいえ、油断しているところにテロ攻撃にあえば肉体そのものの強度はムートン人と差はないのだ。


  (提督は……ご無事だろうか)


  キャッツランド宙軍の英雄とはいえ、艦を降りれば一個の人間であることにかわりはない。このテロが提督個人を狙ったものであるのだから、むしろ生きて帰るほうが奇跡であるのかもしれない。


  (これでもしも生きて戻るようなことがあれば、あの方は母なる精霊の恩寵を受けておられるということだ。この戦役も確実に勝ち抜いて、ゆくゆくは中央の門閥軍人など蹴散らしておしまいになるだろう)


  ニムルスは口のなかでそうでつぶやいて、なにげに副官の少年の尻を追いかけ回す上官の姿を脳裏に思い浮かべた。
  あの煩悩が成就されるまで、ニーナ・ニオールは首を引っこ抜いても死にはしないだろう。自然と笑いがこみ上げてきた。


  「ニムルス少佐。こちらジェダ・アーリ大尉。聞こえますか?」
  「…っ、ああ、こちらニムルスだ。ジェリー」
  「たったいま、ムートン首脳との会談が行われていた弁務官公邸が爆破されたわ。死傷者多数。そちらに画像を送ります」


  展開された映像に目を細めていたニムルスは、ややしてシートに沈むように身を預けた。ゆっくりと肺のなかの息を吐き出す。今現在、ニーナ・ニオール中将がもっともいる可能性の高い建物であった。


  「暴徒の鎮圧、早急にお願いします」通信機からのジェダ・アーリの声は、まるで安手の機械音声のように淡々として抑揚がない。
  「…あっけないものですね」
  「ジェリー、提督はご存命のような気がしないか?」
  「まさか」そう言いかけて、「いえ、そうですね」とジェダ・アーリは言葉を改めた。
  「そうだ」


  ニムルスは嘆息しながら、ニオール提督が無傷で生還を果たした場合のおのれの苦しい立場を思いやった。ずさんな入管チェックとそこに介入したであろう軍高官の名が挙がれば、ニオールほどの知性の持ち主ならばやすやすと長官一派の企みにまでたどり着いてしまうだろう。そこから現長官に近しい閥の出身者としてジェダ・アーリとおのれの名が挙げられるやもしれない。
  直接の関与までは証明できずとも、ニオールの気分しだいで更迭の恐れもあった。
  ニムルスはキャッツランド駐留本部を呼び出した。


  「こちら第九艦隊司令部主席参謀、クオン・ニムルス少佐。ムートン基地本部、応答願います。…繰り返す、ムートン基地本部」


  コールを繰り返すが、すぐに応答はかえってこなかった。駐留軍内部はいまごろ子供に巣穴を踏み潰された蟻の群れのように収拾のつかない大混乱に陥っていることだろう。
  海賊風情が、やってくれるではないか。
  海賊の攻勢は予想以上に大規模なものとなっているようだ。キャッツランド駐留軍上層部、そしてムートン元首とその閣僚たちを無差別に攻撃したということは、海賊どもは両国家を敵に回すことも辞さない覚悟でいるということだ。
  よほど頼りになる後ろ盾でも手に入れたか? この辺境星域に国家相手に戦えるような海賊の大集団は、クンロン・シンジケート壊滅以後、もはや存在しないはずである。
  ということは、その後ろ盾というのはキャッツランドに敵対的ないずこかの星系国家である可能性が高い。
  敵対的な星系国家……そこまで類推を推し進めれば、結論として浮かび上がる国はいくつもない。まず中でも筆頭に疑わしいのは、戦争当事国のモンク星政府である。


  (ずいぶんと後手に回ったな……もしもこれがモンク国の策略なら、まったくいいようにあしらわれたものだ。これでニオール提督が本当に命を落とされて作戦が遅滞したら、中央の制服組の何人かのクビがすげ変わる程度では済まされんな)


  同時に、そのうかつな作戦に踊らされた無能者の列に並んでいるおのれの姿も彼女は想起した。愛人との情実が判断を曇らせたのだとしても、その想像は不愉快だった。


  「あの方が、簡単に死ぬわけはないが…」


  彼女があらかじめ展開しておいた猟兵部隊によって、暴徒の鎮圧はそうとうに早く達成されるだろう。万一の備えのつもりが、しっかり働かされる羽目になってしまった。
  基地からの応答のある間にひとりごちて、ニムルスは聖句を唱えた。






  おそるべきなにかが町を揺らしているのが分かった。
  銃声と爆音、ひとつ壁を隔てたところを通過する重々しい駆動音……それらが身の回りの世界を震わせるたびに、エディエルは身をちぢませて心中の恐怖を紛らわせた。
  砲弾のひとつでもこの建物に飛び込んでくれば、彼の命など猫に捕まってもてあそばれるネズミと同じようにあっけなく失われるだろう。誰にも見取られず、たった一人で孤独に死んでいく想像は、エディエルの心臓を雑巾のようにもみ絞った。


  「誰か!」


  呼ばわっても、外界の騒音がその声をたやすく打ち砕いた。気を失っているあいだに、取り返しのつかない貴重な時間を浪費してしまったのだろうか。
  あれから一時間も経っているとは思えなかった。だけれど、もう何日もたってしまったようにも感じられる。艦隊の出航は二四時間後であるから、何日もたってしまっていたら、彼は完全に置いてけぼりを食らったことになる。軍を辞めるつもりでいても、それはそれでかなりショックなことである。


  「それよりも、あの海賊! クンロンの残党が提督のお命を狙っているなんて…」


  冷静さが戻ってきて、自分の置かれた状況が見えてくると、エディエルはまた暗澹とした気分になった。ひとり閉じ込められ、完全に孤立無援なのだ。致命的なのが、端末をつけていなかったことだ。端末さえあれば、海賊の暗殺計画をすぐさま提督に伝えられるというのに。
  殴られたわき腹が、じくじくと痛んだ。軍隊仕込みの護身術も、キャッツランド人の身軽さも、あの海賊には通用しなかった。他星人を「どんくさい」の一言で斬って捨てるキャッツランド人にとって、その常識を覆す敗北は屈辱感を伴わずにはおかない。
  いずれ復讐戦を挑むにしても、まずここを脱出するのが先だ。誇りあるキャッツランド軍が、海賊ごときにやられっぱなしになっているわけがない。外の戦闘は、おそらくキャッツランド軍による海賊掃討戦なのだろう。そのことにはまったく疑いはさしはさまなかった。
  堅く閉ざされたドアは、押そうが引こうがまるでびくともしない。


  「ぼくはバカだ……副官の最大の任務は、お仕えする上官のお命を守る盾となることなのに、不用意に持ち場を離れてしまうなんて! ここはもう訓練所なんかじゃないんだ。いつどこで襲われるともしれない外地だというのに……ぼくは無責任にふらふらと」


  二科時代に主席の座を争ってきた親友たちの顔を思い出して、顔から火が出るほど恥ずかしくなった。有能な副官というのは、どんな扱いを受けようともけして上官のそばを離れず、危急の時には上官の身代わりとなって死ねる覚悟が必要である。それを自分は、夜伽程度のことで持ち場から逃げ出して、ウジウジ退役してしまおうと本気で考えていた。
  職場放棄はこれで二回目だ。もはや弁明の余地はないであろう。


  「これで最後になっても……最後ぐらいは、副官らしく」


  暗がりに慣れた目で建物のなかを見回すと、そこがもうだいぶん長い間使われずに放置された物置か何かであるのがわかった。金目になりそうなちゃんとしたものなど影も形もない。見受けられるのはもはや使い物にならない腐った木切れや埃にうずもれた布切れ、錆びて塗料のはげかかった古いホイールやいくつかの模造レンガ材ぐらいである。
  窓はなかった。ただ、恐ろしく高いところに、明り取りの小さな穴があいているのは見えた。
  とりあえずレンガをひとつ拾い、ドアの鍵穴と思しきところを叩いてみる。錆びた鉄の扉は、激しい音を立てて震えたが、それで開くような気配はない。


  (外からどうやってドアを固定してるんだろう?)


  この倉庫はむろん海賊のものなどではない。通りがかりに見つけて、たまたま彼を閉じ込めるのに使ったに過ぎないだろう。所有者でもないあの海賊が、この旧式のシリンダー錠の鍵を持っていたとは思えない。鍵自体がかかっていないというのなら、どんな方法でこの扉を固定しているのだろう? 取っ手は頑丈そうな鋼鉄製の輪だ。これに長い鉄棒などを挿し込んで外の壁に引っ掛ければ、簡易的な鍵になりそうだ。
  レンガ程度で叩いてみたところで埒はあかないと得心すると、今度は助走をつけて体当たりをしてみた。だが華奢でお世辞にも体格に恵まれているとはいえない彼の体当たりなどでは、この頑丈な扉は小揺るぎもしない。
  かえって自分の身体を痛めることになって、エディエルは顔をしかめた。
  ならばもう脱出路はあのはるか天井近くの明り取りの窓のみである。呼吸を整えるのもそこそこに、埃の積もった棚をよじ登り、そこから梁に飛び移ると、するすると窓に近づいてゆく。せっかくのセリカドレスが埃まみれになってしまうが、ここは気にしている場合ではない。


  (もう少し)


  梁は目がまわりそうなほど高いところにある。下を見ないように手を伸ばして、窓にしっかり指をかけると、えいとばかりに一気に自分の身体を引き上げた。
  近くで見るとほんとうに小さな窓だ。頭ひとつ通るか通らないかという大きさしかない。外に向かって一応手を伸ばしてみて、誰か気づいてくれる者はないかと振ってはみたが、そもそも騒乱のさなかの街に、こんな手ひとつの合図に気づけるほど余裕のある通行人がいるわけもない。そのうちにまた至近弾が近くの建物を破壊したのか、激しい揺れがエディエルの閉じ込められた物置を揺らした。
  古い物置は、全体がみしみしと不気味な音を立てている。脱出するには小さすぎる窓をあきらめて、エディエルはふたたび梁に身を預けた。年代がかった軽合金の梁は、彼のわずかな体重だけでも大きくたわんでいる。


  (ここがだめなら、あとなにをすればいいんだろう……もう逃げるすべは)


  ゆっくりと諦めが彼の背中を這い降りてきた。
  ちゃんとした監獄でもないのに、そこから脱出することもできない自分の無力と無能にしばし唖然とする。こんな役立たずな人間が、はたしてキャッツランド人のなかにひとりでもいるのだろうか。二科の首席とささやかながら自負してきたおのれの能力がまったく発揮される余地もない。学生であった頃、少なくとも同級のなかでは優秀なほうであるとまるで空気を吸うように自然に信じていたのに、たぶん試験の成績などまやかしで自分は同級生のなかで一番役立たずだったのだ。


  「しっかりしろ、エディエル・ヴィンチ。アーカム教官の実技試験はいつも死にそうなぐらい厳しかったじゃないか……そうさ、いつもこんな感じに」


  いま自分にできることはなんなのか?
  手に入れられる道具……ここにあるものは?
  タイヤの外れたホイールとその部品、模造レンガ十数個、ネジが数個と布切れが少々……そうだ、いま着てるこの服だって、破けばいろいろなことに使えるぞ。いざとなったら、この髪の毛だって結んで紐にできる。
  そいつらを組み合わせて何ができる? ここが思案のしどころだぞ、エディエル・ヴィンチ!
  梁の上で昼寝をする猫のようにうずくまったまま、めまぐるしい思考に身をゆだねていたエディエルは、ややして耳をぴくりとひくつかせ、顔を上げた。
  残念ながら何かを思いついたからではない。不意になにかの気配が、わずかな風をまといながら耳元をよぎったのだ。彼はまばたきした。
  反射的に耳をひと掻きして、視線を流す。明り取りの窓から飛んできたその気配のかたまりは、きれいな放物線を描いてちょうど奥の棚に当たり、はねてそのまま下まで落ちていくところだった。


  「鳥…?」


  最初の想像は、外の騒動に慌てて逃げ込んできた慌てものの小鳥だった(基地施設に鳥が放し飼いになっているはずなどないのにばかな想像だ!)。だが、下まで落ちたそれは乾いた音を立てて転がって、そのまま身動きひとつしない。重さを感じさせない無生物的ななにか。
  エディエルはすばやく梁をわたり、棚伝いに下へと降りた。


  「紙だ……何か書いてある」


  誰が投げ込んだのかは知れない。丸められたそれをやや焦りながらひらいて、そこに書かれた走り書きに目をやった。


  『鍵ははずしといたよン。はやく逃げてネ♪』


  「鍵をはずしたって……あれ、開いてる?」


  さっきまでびくともしなかった扉が、なんの抵抗もなく開いた。あたりを見回すが、人の気配はない。
  足元を見ると、錆びた鋼材が転がっている。どうやら扉をふさいでいたのはこの鋼材であったらしい。びくともしないはずだ。低出力ハンドガンかなにかで溶接した跡があった。


  「誰かいるんですか?」


  声をかけるが、反応する者はいない。誰かが隠れている気配はあったが、それを詮索しているような余裕はなかった。


  「どこのどなたかは存じませんが、感謝します!」


  ともかく誰が助けてくれたのかはあとで調べればいいこと。いまは一刻も早く、彼が本来いるべき場所に向かわなくてはならなかった。エディエルは姿の見えぬ何者かを気にしながら、急いで路地を駆け出した。
  その少しあとを、命知らずのにわか戦場カメラマンが勇躍追尾を始めるのだが、残念ながらエディエルはその存在に気づかなかった。


  「よっしゃ、いい表情! あとは適度な露出度があれば言うことなしなんだけど」


  ちょいと、エディエルの行く手に小石などを投げつけてみるこのカメラマンは、カーリカーン主席航海士である。物音に驚いて転びそうになる少年のスリットからあらわになった脚を、してやったりとばかりに激写した。






  長く細い路地を抜け、最初の大きな通りへと飛び出したエディエルは、突然の物音に驚いて転ぶように身を投げ出した。


  (何…!)


  その数瞬前まで頭のあった場所を、白熱する熱線が無音でないだ。それを避けえたのは本当に偶然だった。熱線は建物の外壁などバターのようにやすやすと貫通し、ひとつのビルをなぎ倒した。


  「まだ避難していなかったのか!」


  怒声を上げたのは、キャッツランド駐留軍猟兵部隊に正式配備されている、『ウェルカムキャット』と呼ばれる装甲兵である。装甲兵は視界にエディエルをとらえ、あっちへ逃げろと熱線砲を持つ手を振った。
  エディエルは駆け寄って、「ニオール提督は?」 と尋ねた。


  「ニオール提督だって? おまえのような民間人に……って、もしかして副官殿でありますか! なんなんですそのナイスな格好は!」
  「第九艦隊のかたですか? それならばはやく教えてください! 一刻を争っているんです!」


  エディエルのドレス姿に思わず見入っていた装甲兵は、ややして半身機体をそらせて後方を指し示した。


  「ムートンの弁務官公邸だと思いますが…」


  後の言葉は、もうエディエルの耳に入ってはいなかった。装甲兵を置き去りに、エディエルは駆け出した。
  通りをいくつか横切るたびに、かつて繁華な歓楽街であったごみごみした町が、見る影もなく本当の意味でのゴミ山と化しているのが目に飛び込んでくる。
  そこここでキャッツランド軍との銃撃戦が展開されていたが、もう鎮圧寸前なのか、それほど組織立った抵抗とは見えない。エディエルはかまわず街路を突っ切った。
  弁務官公邸へと続く通りに出るところで駐留軍の検問があったが、事故に巻き込まれた艦隊司令の専任副官という肩書きが万能の通行証となった。
  治安部隊と野次馬とでごった返す現場近くを、非常な努力を払って突破し、ようやく彼の背丈でも弁務官公邸の全貌が明らかになる場所までたどり着いた。そこでも兵士の誰何にあった。


  「自分はニーナ・ニオール提督の専任副官です! ここを通してください!」
  「宙軍の将校がなんでそんな格好を…」
  「説明などしているひまはありません!」 エディエルの剣幕に、彼の倍はありそうな兵士たちがうろたえた。相手が同朋の少年であることを彼女たちはすぐに察して、腕力ずくの制止に出ることを躊躇したのだ。
  「はやく通してください」
  「いや、少し待て…」煮え切らないようすで彼を眺め始めた相手に、いよいよ忍耐を要求されそうな気配であったが、不意にあがった声が警備兵を飛び上がらせた。


  背後に現れた大柄な兵士が、警備の兵士をどやしつけたのだ。


  「この方はわが艦隊司令の副官殿だ! 格好はあれだが、一兵卒が副官殿の趣味にいちいち文句つけてるんじゃない。ああいうのは文句をつけるもんじゃなくて、こっそり眺めて目を楽しませておけばいいんだ!」


  見上げるような隆々とした上背。第九艦隊旗艦の警衛隊軍曹の姿を目にして、エディエルは目を潤ませてその服にすがりついた。


  「提督閣下は?」
  「いま町に出てきていたやつらを集めて捜している最中です。…それより少尉殿は提督とご一緒でなかったのですか?」
  「…自分は」口ごもってこぶしを握ったエディエルの小さな肩を、ケイティはやさしく叩いて立ち入り禁止になっている邸内へと案内した。


  崩れ落ちた公邸のなかから救出された人々がぐったりと坐り込む姿がそこかしこにあったが、ニーナの姿は見当たらない。駐留軍の兵士にまざってカーリカーンの見知った顔が瓦礫の撤去に携わっている。上陸休暇を満喫していた組だろう。おそらく事故を聞きつけて、自主的に集まったのに違いない。
  彼の姿を見つけて、彼女らはくったくなく手を振ってみせた。湧き上がってくる不安に胸をつかまれながら、エディエルはケイティを見上げた。


  「死体のほとんどはまだ瓦礫のなかです。逃げ出せた者もほとんど半死半生の怪我人ばかりで……安心、というのもおかしな話ですが、さいわいなことにまだニオール提督は見つかっておりません」
  「ということは、まだあのなかに…」


  いまだもうもうと黒煙を上げつづける弁務官公邸は、二階建ての一階部分が完全につぶれた形でひしゃげ果てていた。建物を支える柱を計算づくで爆破し、会談の行われていた一階大広間を死のプレス機と化さしめた海賊どもの手際のよさにエディエルは総毛をふるった。
  これでは会談の場にいた者たちは、ほとんど絶望的である。おそらくこの弁務官公邸爆破の災難から生きて逃れえたのはまだしも原形をとどめている二階部分にいた者たちなのであろう。続けてケイティの口から出た報告に、彼の想像を補完するおぞましい事実が連ねられた。


  「ラウム国家元首と高等弁務官、そのほか公邸職員多数、キャッツランド側は駐留軍副司令官、ボラン・ドルーネ少将とその随員三名の死亡を確認。シグラ・コーネル大将はたまたま席をはずされていてご無事です……少尉殿?」


  (自分の責任だ……あのとき自分が拒んだりしなければ)


  エディエルの思いは言葉にこそならなかったが、そのわずかな口の動きからケイティは事情を正確に読み取ったようだ。
  ははあんと得心顔で顎をしごいたケイティは、ポケットから手袋を取り出して、「少尉殿もご一緒にいかがですか?」と、あきらかにさまになっていないウインクをしてみせた。


  「身体を動かしていれば、余分なことを考えなくてすみます。大丈夫です。あのお方は案外にしぶとい。おおかたつぶれた瓦礫の隙間にでも転がり込んで、お茶でも飲みながら我々の助けを待ってますよ」
  「そんなことがあるのでしょうか?」
  「クンロンの海賊どもを叩き潰したあの大殲滅戦のとき、提督閣下は沈みかけの船を敵の大将にぶち当てて、そのまま行方不明。それから一週間もあとになって、偶然巡邏中の船に拾われたときには、漂着したアステロイドにテントを張ってのんきにマタタビ茶を飲んでいました」
  「そうですか」


  エディエルは少し笑って、渡された手袋をはめた。


  「自分も手伝います。なにをすればよいですか?」
  「なに、少尉殿にはできるだけ提督の名前を呼びつづけていていただければけっこうです。少尉殿のお声を聞けば、あの提督もこの世に未練たらたらになるでしょうから」


  嗅覚に鋭いキャッツランド兵のこの手の被害者捜索は、非常に効率的であるのが常であったが、それでも公邸の瓦礫があまりにも多すぎるのか、被害者の救出は遅々として進まなかった。おそらく工作部隊と適当な機材を投入しても、この瓦礫を完全に取り除くには一昼夜は要するであろう。


  (提督…)


  逃げ遅れて閉じ込められているだけなら、一日が二日になったところでそれほど問題はなかったが、なにか致命的な負傷でもしていようものなら、一分一秒の遅れがそのまま被害者の命を減衰させてゆくことになる。
  彼がどける瓦礫などほかの者たちのそれに比べれば小石のように小さなものだったが、作業を始めるとすぐに汗が噴き出してきた。額の汗をぬぐう手に、汗以外のものが混じった。
  命に代えても護らなければならなかったはずの上官のそばを不用意に離れて、みすみすその命を失わせてしまった。
  もしも会談まで行動をともにしていたなら、おそらく彼も巻き添えを食っただけで無為に命を落としていたかもしれない。だがそれでも任務に沿って殉職というのなら、それはそれで軍人として本望である。上官を殺害されてなお生き残ってしまった専任副官は、この不名誉をどう晴らせばよいのだろう?


  「少尉殿」ケイティの手がそっと彼の手をとめて、首を振った。


  「やめておきましょう。今日は少しお疲れのようです」


  引き上げられるままに立ち上がって、エディエルはふっとケイティのまなざしを見返した。そして人目もはばからずに泣いている、ふがいない自分に彼は気付いた。自覚が追いつくと、いよいよ涙をこらえることができなくなった。
  どっと溢れ出した涙をぬぐいもせずに、ただ呆然と立ちすくんだままおののいている彼に、ケイティは空いた両手をどうしたものかとわきわきさせたが、そこから先の何かをするほどの決断力を得られずに、「あちらにいきましょう」と軽く肩を叩いた。
  ややしてエディエルが涙をぬぐったのは、将校としての体面を慮ったからではなく、たんに視界がぼやけて何も見えなくなったからである。彼はぐるりとあたりを見渡し、一度は歩き出そうとした。だが、その足が止まった。
  通りに集まる人だかりのなかに、ふと見覚えのある顔を見つけた気がした。
  彼のなかでそれらはすぐには何の意味も持たなかったが、脈絡もなく思い出されたいくつかの記憶の断片が急速に結び合わさっていく。
  そのひらめきは、天啓のように彼の脳髄を打った。


  (あれは……海賊ッ!)


  つい数時間前に彼の網膜に焼き付けられたばかりの、あの色黒の青年と行動をともにしていた老若の男たちである。やつらは爆破が成功したか確かめるために、のうのうと野次馬にまぎれて見物していたのである。
  エディエルの足が止まった。


  「ケイティ軍曹」エディエルは気づかれぬよう小声で呼ばわって、何食わぬ顔で野次馬のなかにいる海賊たちのことを伝えた。顔色を変えて駆け出そうとするケイティを押さえて、平静を装えと命令する。


  あの愚かな海賊たちは必ず一網打尽にする。そして犯した罪を償わせてやる。


  「民間人は巻き込みたくありません。完全に通りを封鎖してから、野次馬もろとも全員連行してください。制止を振り切って逃げ出すやつがいたら、そいつは海賊です。捕獲に必要なあらゆる手段を認めます」


  階級こそ上位であれど、直接の上官でない彼の命令は明らかに越権行為であったが、エディエル・ヴィンチという一個人の少尉という身分よりも、第九艦隊司令官の『専任副官』という特殊な肩書きがそれを正当化した。軍制上の常識を、キャッツランド人の情理が覆してしまうのである。
  突然現れて、現場の兵士と何事か喋り始めたセリカドレスの美少女を、野次馬たちは無責任な好奇の視線で眺めていたが、ややして通りの両側に大勢のキャッツランド兵がなだれ込むのに気づいて、泡を食ったように右往左往した。


  「全員、伏せろ!」


  兵士たちの威嚇射撃に、ほとんどの者が即座に地に伏したが、なかにはそのまま逃げ出そうとするものもある。キャッツランド兵は、なんのためらいもなくその向こう見ずな者たちを射撃の的にした。


  「命令に従わない者は、海賊の一味であると断定します! おのれの潔白に自信があるのなら、おとなしくその場で伏せていなさい!」


  そのとき幾人かがすばやく立ち上がり、「撃つのをやめろ」と、声を張り上げた。反射的に発射された最初の銃声が止んで、その者たちの反応を見守るように短い沈黙が訪れたが、彼らが見まごうことなき海賊で、ムートン人を盾に組織的な動きに移ろうとしているのを知ると、ふたたびキャッツランド兵の包囲の隊伍から威嚇射撃が行われた。


  「ばかやろうめが! こっちは人質をとってるんだぞ! それをてめえら…?」
  「われわれの射撃は正確だから安心しろ。きさまらの手が動く前に、きさまらだけ全員仲良くあの世に送ってやる」
  「ばかいうんじゃねえ! そんなことできるわけが……待て、撃つな!」


  海賊たちは片腕で首を締め付けるように野次馬のムートン人を盾にしていたが、キャッツランド軍がそんなことなどお構いなしに彼らを蜂の巣にするつもりだと悟ったものか、次々と『用なし』の人質たちを解放した。


  「オレたちはやってやったぞ! 仲間の仇を討ってやったんだ!」
  「クンロン党万歳!」


  海賊は捕まったら例外なく縛り首と、星系世界では取り決められている。宇宙を航行する船舶を襲い、人の命と財産を何の権利もなく強奪する彼らに、情状酌量の余地が与えられることなどまずありえない。


  「殺すなら殺せ! どうせこの星にきたときから命はないもんと思っとったわい!」


  ひとりの初老の海賊が腕を振り上げそう叫んだ。


  「わしらが、あのニオールをぶっ殺してやったんだ! あの冷血のくそアマ、ほんとうなら大老の墓前に引きずり出して、一寸刻みになます切りにして死ぬまで命乞いさせてやるところだが…」


  どうせ死ぬのなら腹の中のものを全部ぶちまけてやれという勢いで叫び続けていたその海賊が、口上の途中ではたと口をつぐんだ。
  海賊のこめかみに、いつの間に近寄ったのか、美少女が銃口を突きつけていたのだ。
  まだ海賊たちは、そのセリカドレスの美少女が提督の専任副官だとは気づいていなかったであろう。何の反応も見せずに、ただ呆然としている。


  「その汚い言葉ばかり出てくる口をふさげ。きさまはもう二度と口をあけるな」
  「少尉!」


  少年のひどく抑制された声音に、海賊は反射的に無抵抗の姿勢をとった。相手は組みし易げなか細い少女だが、言うことを聞かなければためらいなく引き金を引くだろうと確信させる空気があった。
  そのとき一瞬の隙を突いて別の海賊がエディエルに飛び掛った。反応よくエディエルはそれを飛んでかわすが、狙いがそれた銃口を初老の海賊に押さえられる。


  「こんなガキが少尉さまか……おい、このガキの命が惜しいなら、道をあけろ!」


  その恫喝で、彼らに狙点を合わせていたキャッツランド兵に、明らかに躊躇する様子が見えた。
  人質としてのエディエルの価値に希望を抱いた海賊は、彼を羽交い絞めにしながら後退する。ほとんど足が宙に浮いたままエディエルは激しくもがいたが、「おとなしくしろ」と首筋にナイフを突きつけられると観念しておとなしくなった。


  「自分にかまわず、撃ってください」


  エディエルはキャッツランド兵たちに言った。


  「ですが、少尉…」
  「ニオール提督が亡くなられたのに、その副官がこれ以上生き恥をさらしているわけにもいきません。命令です、自分もろともこいつらを撃ち殺して…」
  「副官、だと?」


  エディエルを羽交い絞めにした初老の海賊がうめいた。


  「あのクソあまの副官だと? こんなガキが愛人なのか?」
  「おい、力入れすぎると腕が折れちまうぞ。ここを脱出するまでは大事な人質だ」
  「キャッツランドのクソ女ども、やつらにゃリンリカンってもんがねえのか! なんつうんだ、同性愛っつうやつか」


  海賊が思わずこめていた力を抜くと、またぞろエディエルがもがきだす。


  「いんや、こいつは男かもしんねえぜ。キャッツランドじゃ野郎が貴重だってえからな、お偉い提督さまの副官ともなりゃ、軍のあてがう愛人だろう? たぶんあの兵隊どものようすじゃ男だぜ」
  「これで男か!」


  女性化の進んだキャッツランド人男性の小造りに整った柔和な顔立ちと、華奢だが全体に丸みを帯びたその体つき、そしてなによりキャッツランド人のトレードマークでもある髪のなかからつんと飛び出したふさふさの耳とが、『男性』というイメージを容易には寄せ付けない。キャッツランドで『シャムミルク』と貴重視されるプラチナブロンドの長い髪と、緋色の艶やかなセリカドレスも『男性』という言葉の信憑性を危うくしていた。
  おそらく海賊ならではの野放図な好奇心からであっただろう。海賊の手が迷いもなくエディエルの股間へと伸び、そこにひそめられたものを鷲掴みにした。


  「あっ」とエディエルが短く声をあげるのと同時ぐらいに、キャッツランド兵のなかから何発か発砲音が乱れ立った。


  急激に険悪化したキャッツランド兵たちの形相に、海賊は慌てて手を引っ込めたが、そのあとつまらぬ一言を漏らしたばっかりにキャッツランド兵の敵意を一身に集めてしまう結果になった。


  「ホントにありやがった…」


  キャッツランド兵たちの構える銃口が、訓練され尽くしたマスゲームよろしくぴたりとその海賊に合わせられる。それらがいっせいに熱線を放てば、人間のひとりやふたり、一瞬でこの世から消えてなくなる。


  「…ずらかるぞ、おい」
  「分かってらあ」


  その場にいた十人ばかりの海賊たちが、人質の神通力が消える前にといそいそと後退を始める。すると、いろいろな場所の物陰から、新たな海賊たちが姿をあらわした。手に手に武器を持っているのは、あるいはニーナを討ち漏らしたときの保険のつもりであったのかもしれない。
  そのなかに、あの色黒の青年の姿もあった。


  「ちっ、どうやって逃げ出したんだ?」


  青年は三階建ての建物の屋根の上から顔を出し、ぎろりとエディエルを睨みつけた。もしもこのまま海賊の船にまで連行されれば、おそらく死んだほうがましと思えるほどの苛烈な拷問がエディエルの身に降りかかるであろう。
  その場にいたすべてのキャッツランド人が最悪の結果を予想して歯噛みしていたそのとき、事態を一転させる一声がキャッツランド兵たちの隊伍の後ろから発せられた。


  「なんなの、この騒ぎは」


  叫ぶでもないその問うような声は、場があまりにもしんとしていたために、ことのほかよく耳に届いた。


  「てっ、提督!」


  軍用車の座席からにんじん色の髪をかき上げて上半身を伸ばしたニーナが、そこに並んだ兵士たちのただならぬ形相にきょとんとした。


  「生きていらしたんですか! いままでどこに…」
  「どこにって、怪我したから医務室で治療を受けていたのよ。ほら」 そういって、包帯を巻いた左手をひらひらさせる。ニーナは会談に出席していなかったのだ。
  「探しものをみつけたわ、あんたはここで待ってて」


  軍用車の運転手はおそらく一般兵が見たらおもわず敬礼をしてしまいそうな高官であるらしかったが、宙軍中将に命令されるその姿は完全に下っ端兵である。車から降り立ったニーナは、腰に手をやって堂々と言い放った。


  「あれはうちの副官じゃないの。なんであんなところで、むさい海賊に抱きかかえられてるの。あれはわたしのものよ」
  「ご無事でしたか! われわれはてっきり…」


  いまひとつ会話がかみ合っていないキャッツランドの現場指揮官を手で制して、ニーナは「ヴィンチ少尉!」と呼ばわった。


  「提督」


  遠目にも安堵の涙で顔をくしゃくしゃにしているエディエルの様子が知れて、ニーナはいよいよ詰問口調で状況を尋ねた。しかめつらしく頷きながらことの顛末を聞いているニーナの表情が、最初ひどく険悪になっていたかと思うと、がらりとやに下がったようなゆるゆるの表情になる。おそらくおのれに対する暗殺計画が実行されたことに憤ったあと、そのなかでおのれの副官の思いがけぬ忠臣ぶりを聞いてにやにやした、というところであろう。


  「ヴィンチ少尉をただちに救出しなさい! 彼の身体に傷ひとつでもつけたら、全員鞭打ち三十回よ」
  「無論です。キャッツランド男は、わが国の貴重な財産でありますから」
  「てめえら、わしを殺すつもりだな! そうだろ! てめえらはキャッツランド人以外の人間の命なんざ使い終わったケツ拭き紙みてえに扱いやがる! あんときもそうだった! わしらは白旗振って全面降伏したってのに…」


  エディエルを羽交い絞めにしていた海賊は、もはやこの場から生きては出られないと確信したものか、仲間の海賊たちに脱出を急がせつつ自らはキャッツランド兵たちの銃口の前に身をさらした。


  「ニオール!」


  海賊は懐からハンドガンを取り出すと、それをエディエルのこめかみにあてがい、包囲の外にいるニーナに向かって叫んだ。


  「こっちへこい! このかわいい副官の命が惜しいなら」
  「少尉を放しなさい! どうして少尉の命を盾にしないとならないの? おまえたちの狙いはこのわたしの命のはずじゃないの」


  周囲の制止を押しのけて前へ出ようとするニーナを見て、エディエルが声にならない悲鳴をあげる。


  「提督!」
  「ほら、おまえの要求通りこうして銃の的になってやったわ。おまえの仲間たちも見逃してほしければ見逃してやります。だから少尉を解放しなさい」


  エディエルのこめかみに押し付けられていた海賊のハンドガンが、ついとニーナへと向けられる。
  この海賊はもう生きて逃れることなど考えてもいない。おそらくなんの躊躇もなくニーナを射殺し、目的をまっとうするであろう。
  エディエルがとっさにもがいて、お留守になっていた片腕にしたたか噛みついた。海賊が怒声を上げてエディエルを振りほどこうとしたその一瞬をついて、ニーナは海賊の死角へと走り込んだ。瓦礫に足を取られるのを巧みに回避しつつ、途中得物となる鋼材片を拾い上げる余裕すら見せて、海賊が見せた背中へと殺到する。


  「ニオール!」


  海賊がニーナに向けてハンドガンを放った。
  いくらキャッツランド人の身体能力がずば抜けていたとしても、一瞬のうちに五十メートルあまりの距離をゼロにできるはずもない。連続して三回放たれた致死の光線は、正確にニーナの身体のまんなかへと吸い込まれていくかに見えたが、そのときかざされたニーナの手がそれらをことごとく弾きそらした。


  「偏光シールドか!」
  「三秒しか持たないけどねえ……この場合は十分」


  勇猛で鳴るキャッツランド機甲化猟兵もかくやというあざやかな身ごなしで、ニーナは鋼材を海賊の肩口に叩き込んだ。が、片手だけでは威力も半減で、海賊をよろめかせたにすぎない。返す刀で二撃目に移ろうとしたニーナであったが、その前に海賊が打撃から回復して体勢を立て直してしまう。


  「この手でくびり殺してやる!」


  タックルしてきた海賊を反射的に左手のギプスで払いのけ、しゃがみざま旋回したニーナの脚が海賊の脚を刈り取った。どうと倒れてくるその海賊の顔面に、カウンター気味にニーナの振りぬいた鋼材がヒットした。


  「エディ!」


  なおも掴んで放そうとしない海賊の手を「邪魔」とばかりに引き剥がして、おのれの専任副官を手中に取り戻したニーナは、映画のクライマックスシーンよろしく少年を懐にかき抱いた。
  見上げる少年の目が潤んでいる。ニーナは突き上げる激しい想いに任せて、すわ接吻をと顔を近づけた。
  が、見開いた互いの瞳が接近を知覚するいとまもなく、一方の拒絶によってふたたびふたりは分け隔てられる。


  「エディ!」今度は抗議口調で少年の名を呼んだが、彼女の腕のなかから強引に脱出したエディエルは、ニーナを横合いから突き飛ばした。転がったニーナが驚きとともに目にしたものは、銃を構える血まみれの海賊と、最後に彼女に笑いかけ、ゆっくりと倒れていく副官の姿だった。


  「きさま!」


  ゆっくりとこちらへ銃口を向ける海賊を睨み返して、ニーナはまだ十分に捕食者の武器として機能する牙をむいたが、身を翻すには時間の余裕が不足していた。


  「これで大老も成仏できることだろう……死ね」


  彼女が飛び掛ってその喉を掻き切るよりも先に、海賊は確実に引き金を絞って彼女の命を奪うことができたであろう。初老の海賊は血に汚れた口元を笑いにゆがめていたが、その指が銃の引き金を引くことはとうとう永遠になかった。
  いきなり海賊の首がくの字に折れ曲がった。
  若木を砕き折るような音がして、崩れ落ちた海賊の背後に、警衛隊軍曹の雄偉なシルエットが現れた。


  「遅れました」
  「本当に遅かったわ。いままで昼寝でもしていたの?」


  ニーナの文句には反応せず、ケイティは倒れた少年の上にかがみ込んだ。その表情に余裕がないのを見て、いまが切迫した状況であることをニーナも思い出したようであった。


  「どうなの?」
  「はやく医務官を……緊急です!」


  倒れ伏したエディエルを抱き起こそうとしてニーナは悲鳴をあげた。
  海賊の放った一弾がどこに当ったのかは判然としない……が、戦闘慣れしたニーナでさえも表情を変えるほどの出血が少年のまわりに拡がっていた。






  医務官が駆けつけるまでの時間が永遠のように長かった。流れ出す血の量が増えるとともに、エディエル・ヴィンチという一個の生命が確実に失われていった。ニーナとケイティは、半狂乱になって怒鳴りつづけた。
  医務官が到着するまで、実際には二分少々しか経ってはいなかった。
  しかし、医務官が施したその場での応急処置では、エディエルは息を吹き返すことはなかった。









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