『インフリ!!』





  第9章












  「提督! 未確認艦隊が出現しました!」


  悪いときには悪いことが重なるもの……他人がその事実を眺めるとき冷静でありえるのとは違い、当事者たちは背後に忍び寄る禍々しい悪意の気配を感じずにはいられなかった。


  「星団認証を確認。シカン国の巡察艦隊です。出現した重力波から予想される艦艇数は、およそ一千隻……いえ、報告修正します。後続多数。少なくとも同数以上の艦艇がジャンプアウトしてきます」
  「提督」


  一声かけられても、ニーナはそちらを見向きもしない。シートの上で膝を抱え込んで、ぶつぶつと小声でつぶやきながら、爪を噛んでいる。


  「ルーエンの守備部隊も、増援されつつあります。両国艦隊をあわせると、わが艦隊の戦力を凌駕し…」
  「いなか軍隊などほっとけばいいんだ。どうせ何にもできはしない」 旗艦艦長セリン・ドヌーブは断定的にいった。
  「たとえシカン国の宇宙戦力すべて、五千隻の艦隊が相手だとしても、わが第九艦隊が遅れをとることなどありえん。その五千隻にルーエンの貧乏くさい守備隊が一千隻ぐらい合流したとしても、わが第九艦隊は対等以上に渡り合ってみせるぞ!」


  ドヌーブの主張を、誰も否定したりはしなかった。キャッツランド軍人ならば、多かれ少なかれ同じような価値観を共有している。


  「それは……分かっています。ですが」


  ニムルスは落ちかかった前髪を左手で落ち着かせながら、眉間に皺を寄せた。


  「ルーエン、シカン両国に対して戦端を開くわけにはまいりません。これは非常に高度な政治的判断を必要とします」
  「わが艦隊の進むべき航路は、ほぼ封鎖されました。両国の理解を得ない限り、平和裏にこの星域を通過することは困難でしょう」


  ジェダ・アーリ大尉が補足する。


  「ああ、まったくうっとうしい」


  がりがりとにんじん髪をかき回してから、ニーナは申し訳程度に髪形を整えて、通信士を呼んだ。画面に現れたシャーリーに、「回線をつないで」と命令する。
  一、二……無言のカウントが十に届く前に、シカン国の艦隊司令官がモニターに現れた。シャルパと名乗ったその将官は、リストの照合でシカン国宙軍総司令官というものものしい肩書きを持っていることが分かった。この艦隊の派遣が、国家的な決断によってなされたことがその事実で分かる。


  「わたしはキャッツランド宙軍中将、ニーナ・ニオール。シャルパ殿、なにゆえ貴国は、わが艦隊の通行を拒むのですか。わが国の艦隊が当公路を通過することをせんだって貴国は承認したではありませんか」
  「辺境星域の安定を破壊する一切の行為に、わが国はけっして荷担しない。貴殿には気の毒だが、ここから引き返していただこう。これはシカン国王府の決定であり、辺境諸邦連合の総意でもある」


  堂々たるシカン人の態度を横目に、ニーナは隣の主席幕僚に「辺境諸邦連合?」と小声で確認した。


  「なにやら先ごろ結成されたばかりの同盟のようです。もちろん、大キャッツランドはそのような会合に呼ばれておりませんし、尊重すべき理由もいまのところ存在しません」


  ニーナはスクリーンに向き直った。


  「当艦隊は、誓って貴国の安全を脅かすものではありません。すでにわれわれは貴国の通行許可を貴国元首であられる国王陛下の御名のもとに書面でいただいています。長く続いてきた両国の友好が、このような通す通さぬの小さな揉め事で失われるなどと、わたくしは信じておりません」
  「その許可はもはや無効とご理解ください。ミス・ニオール。現在わが国王府は、辺境諸邦連合で締結された条約を批准し、軍事目的での公路使用を制限することを決定いたしました」
  「ずいぶんと一方的な物言いではありませんか? その許可取り消しの一報を、わたくしはまだ受けてはおりませんが」
  「国王府が通行許可取り消しの手続きをしたのは、つい三時間ほど前のことです。すでにその旨の通告は貴国女王宮宛に送られています」


  シカン国総司令官シャルパは、そうそうたるキャッツランド艦隊の陣容を眺めても、微塵も表情を動かさなかった。辺境に冠たる大キャッツランドの精鋭艦隊を相手に、戦い抜き勝利を得る揺るぎない自信があるようである。軍人という生き物が、おのれの持てる武力を過大評価しやすい傾向にあることは、どの国どの人種にも共通して指摘できる点ではあったが、ニーナ、シャルパ両者に、そのような自覚は無縁そうであった。
  むろん、無関係な一般の辺境人がこの事態を目にすれば、おそらくシカン・ルーエン両国軍が数で勝れりとはいえ、キャッツランド軍に軍配を上げたことであろう。局地的に戦力が上回ったところで、キャッツランドにはまだ二万隻にも及ぶ無傷の正規艦隊が後続に控えているのだ。


  「いやに自信満々なやつだな」セリン・ドヌーブが不満そうにひとりごちた。


  ニーナが口を開きかけたとき、通信士の報告がそこへ割り込んだ。


  「銀河中央方向、二時の方角に新たな艦艇群!」


  スクリーンのシカン国総司令官の上半身が小さく隅に追いやられ、宙図が現れた。


  「艦艇数およそ二千! 星団認証を確認しました! モンク国の艦隊です!」


  艦橋に居合わせたすべてのキャッツランド人が目を見開いた。今度の戦いの相手、愛すべき国民的アイドルをかどわかした憎むべき敵の、予定にない登場である。


  「ミス・ニオール」


  スクリーン上のシカン国総司令官が、勝ち誇ったようなオーラを全身から発散させて、「おまえたちにも見えただろう?」といわんばかりに微笑を浮かべた。


  「貴国とわがシカンの友邦モンク国とのあいだには、いささか感情的な行き違いがあったようです。辺境諸邦連合は、辺境の安定が保たれるために、両国の建設的な話し合いが行われることを切に願っております」
  「なにを馬鹿なことを!」


  誰とはなく、キャッツランド人たちが叫んだ。スクリーン上のシカン人は、彼女たちの叫びに目を見張ったが、その怒りにはまるで共感を示さなかった。


  「ご心配には及びません。わがシカン国は、過去にあなたがたキャッツランドの友人であったように、現在、そして未来にわたって友人でありつづけることを望んでいます」


  シカン国総司令官シャルパの映像が、微笑みの残像を残してスクリーンから消えた。
  代わりに大写しになった宙図に、新参の艦艇群が徐々に光点を増やしている。モンク国軍の先遣隊であろう。
  無心に爪を噛みつづけるニーナに、もうひとつの報告が届けられた。通信士のシャーリーが、ニーナの剣呑なまなざしに居竦んだように声音を小さくした。


  「提督、海賊どもが交渉を要求しています…」


  まるでこの瞬間を待っていたかのように。
  ニーナはかじり取った爪を、ぷっと吐き出した。






  「要求は聞いてもらうぞ!これは約束だったからな」


  司令官付専任副官を人質に、旗艦カーリカーンの一室に立てこもっていた海賊たちが、船底倉庫に収容された拿捕艦艇に居を移すことを要求し、これを実現させたことは、キャッツランド人たちに少なからぬ動揺を与えた。
  拿捕艦艇は、もともと海賊たちのものである。重要な人質を確保しているとはいえ、現在の境遇からの脱出が容易ならざることを理解している海賊たちが、なにゆえ武装解除された無力な小型艦に戻りたがったのか、その動機を危惧するキャッツランド人が少なからずあった。そのひとりが、警衛隊軍曹であった。


  「カーリカーン艦内でわれわれの手がもっとも届かない場所のひとつをやつらに提供するとは…」


  拿捕艦艇とはいえ、その制御系統はむろん単艦で完全に独立している。同様の理由から、技術系士官たちも、艦隊司令官の決定に異を唱えた。


  「応急的に、いまは拿捕艦の人工知能も外部管理していますが、あくまで一時的な処置を施したのみです。やつらに専門知識があれば、すぐにでも『アタルゴウ』の管理を切り崩すことができるでしょう」


  通信士のシャーリーなどは、海賊の転居が知らされるや、すぐにいくつかのケースを『アタルゴウ』にシミュレートさせ、悲観的な結果を報告書として上げている。
  事前の海賊艦艇視察にあたった軍医や看護兵たちからも、「壊滅的な衛生状態です」と悲鳴があがった。彼女たちは、異常に大きく育った黒い原始昆虫をその強力な傍証として提出し、多くの同僚たちに毛を逆立てさせた。「あのような場所に副官殿を連れ込ませるわけにはまいりません!」
  それらの不満の声を押さえたのが、ニーナ・ニオールの行ったいくつかの措置であった。
  まず返還の条件として三日の猶予を海賊に認めさせ、彼女はその七二時間を非常に有効に活用した。
  艦内の徹底的な洗浄、艦の人工知能にたいする欺瞞工作、そして緊急の突入時に必要な外部手動操作式の突入口の設置。
  そしてそれらの条件を下敷きとした、艦隊のアイドル救出作戦が、憂えるキャッツランド人たちの愁眉を開かせた。


  「やつらも船を取り返せば、緊張を持続させるのは難しいでしょう。むしろ要求するものすべてを与えてでも、救出の瞬間に必要な十秒の油断を買うべきです。まさに値千金の十秒になりましょう」
  「副官殿を救出さえしてしまえば、あのような輩ども、なんのためらいもなく宇宙の塵にしてやれます」


  海賊艦には、特殊なビーコンが据え付けられた。これでこの海賊艦は、逃げも隠れもできなくなる。たとえ恒星の裏側に隠れたって、誘導弾は彼らを執拗に追いつづけ、確実にしとめることだろう。
  それらは秘密の作戦のはずであったが、カーリカーン乗組員の実に四人にひとりの人間がこの海賊艦の改造に携わったために、秘密はまたたくまにキャッツランド人たちの共通の秘め事になった。
  海賊たちの立てこもる部屋に出向き、船底倉庫への先導を任されたニケア少尉も、不自然なほど嬉々として、案内される海賊たちを大いに困惑させた。


  「どうぞ、あなた方の船です」


  ニケア少尉は、みずからハッチを開けて、海賊たちを差し招いた。
  階段を上る海賊たちの横には、敬礼したキャッツランド人たちが居並び、さながら政府要人でも歓迎するかのようなようすである。そのキャッツランド兵たちの表情も、うさんくさいほど明るかった。


  「気味の悪いやつらだ」


  海賊たちは人質の少年副官に必要以上に武器を向けて、野犬狩りに遭った犬たちのようにやたらと吠え立てた。なかにはキャッツランド兵に掴みかかって、「なにをたくらんでやがるんだ」と恫喝するものさえあった。


  「たくらむ…? ご冗談でしょう」


  キャッツランド人は、決して嘘をつくのがうまいほうではない。
  海賊たちは大いに怪しみながら、古巣の船に飛び込むと、子供じみた慌てようですぐさまハッチを閉じた。


  「やつら、ぜってぇ何かたくらんでやがる!」


  いわずもがなとばかりに、海賊たちが喧々と騒いだ。






  「まさかやつらがすんなりと返してくれるたぁな」


  要求した本人がそう感心して首をひねってしまうほど、キャッツランド側の譲歩はたしかに過剰であったのだ。海賊側の代表として交渉に当たった頭目のスベンは、その奇跡的な交渉の成立をなんの屈託なく「おれさま」の功績と公言した。


  「船んなかを念入りに調べるんだ! てめえら、なんかおかしなモンが見つかったら、まず俺に報告しろ」
  「あいよ」


  三十人の海賊たちが、スベンの命令でどやどやと船内に散っていく。それを見届けて、スベンは不敵に笑った。もうここにいる海賊たちは、自分の命令ひとつでどうにでも動かせる。
  人質の少年を見下ろして、スベンは無精ひげに覆われたあごをしごいた。捕縛されて絶体絶命であったあの状況から、とうとうおのれたちの船まで取り返すところまできた。まさに『幸運の女神』である。
  スベンはベッドの上に眠りつづける少年の頬を軽くつねってみた。染みひとつないきめの細かな肌に、そこだけ血の気が現れる。死んだように静かだが、たしかに生きている。


  (このお姫様、さまさまだぜ。まったく、これでほんとうに男だってか)


  白銀のつややかな髪とネコ耳が、視覚情報を混乱させる。キャッツランド人の男はみんなこうなのか?


  「あっ」


  声を上げたのは、ベッドにひっついて決して離れようとはしなかったキャッツランド人看護兵である。名前は覚えていない。


  「だめです! そんなことをしては!」
  「死にゃあしねえよ」
  「少尉殿のお顔にアザでも残ったらどうするんですか! やめてください!」


  看護兵は身を投げ出すように少年におおいかぶさった。この看護兵がそうとうにイカレているのは海賊たちの知るところである。殴る蹴る、かなり乱暴狼藉をこの看護兵には加えているのだが、いっこうにめげることなく少年の世話をしつづけている。


  「一度全部ひん剥いてみようぜ。なあ、アニキ」


  ごつい海賊のひとりが、なぶるように聞こえよがしに耳打ちする。


  「こんだけ別嬪なら、男でもかまやしねえ……ぶち込んでやったら、どんな声で鳴くのかなぁ。きっとあっちの声も極上なんだろうなぁ」
  「ひいッ」


  まるで自分が襲われでもするように、看護兵が悲鳴をあげた。


  「やめて! やめて! やめて! やめてェッ!」
  「うるせえ!」


  スベンは看護兵の三つ編みを掴み上げると、その耳元に怒鳴りつけた。耳のいいキャッツランド人は、それだけで十分に痛めつけられる。そのようすを見て、海賊たちが野卑な笑いをもらした。


  「どうせならこのネコ女もいっしょに…」


  鼻息も荒くもぞもぞとしていた海賊がひとり、急にうめいて身体をくの字に折った。男の腹にめりこませた腕をゆっくり引き抜きながら、スベンがねめつける。


  「てめえらは指一本さわるんじゃねえぞ。もしも我慢できねえってんなら、前もってその腐れ○ンポを切り取っておくぞ」


  スベンの手には、すでにナイフが抜かれている。


  「このガキは俺たちの命綱だ。滅多なことはするな……いいか、そっちのことは想像もするんじゃねえ! 女ひでりなのはてめえだけじゃネえんだぞ。うせろ」


  ナイフを横に振り回す。スベンが本気であることを知っているその海賊は、逃げるように艦橋を出て行った。遠巻きにするほかの海賊たちも、スベンの剣呑なまなざしに、喉仏を上下させた。


  「ハッチをネコ女どもが叩いています! 中に入れろと騒いでいるようっス」


  艦内機器の動作チェックをしていた海賊のひとりが、尻を掻きながら報告した。


  「軍医者どものようっス。入れますか?」
  「船んなかの点検が終るまで待てと言っておけ! 四の五の言ったら、パルス砲でもぶち込んでやれ」
  「そいつぁいいや。一二番の砲座が動くかもしんねえ。試し撃ちしますか?」
  「ばかやろう。冗談に決まってんだろ!」


  艦橋に、海賊たちの下品な笑い声があふれた。


  「融合炉、異常なし」
  「電気系統、前よりも調子がよくなってやがる。船尾のトイレも電気が行ってますぜ」
  「船外の砲座は沈黙したままだ。なんか封印されちまってるみてえだ」
  「船体質量が五%も増えてやすぜ。あっ、このクソ人工知能、走査を拒絶しやがった!」
  「あ〜、通話テスト中! どうぞ!」


  いろいろと問題はあるようだが、百メートル級の小型海賊艦が、徐々に息を吹き返していくのが分かる。
  スベンは手の腹で鼻をこすると、こらえきれぬ笑いを口のなかで噛みくだいた。






  いつ頃目が覚めたのか、はっきりとは覚えていない。
  エディエルは、天井を見上げていた。
  意識を失う前に最後に見上げたのは、ムートン錨地の大天井だった。町全体を覆うその恐ろしく巨大な天井とは違い、ここのそれは手を伸ばせば届きそうな低さにある。


  (ここはどこなんだ)


  最初に恐れたのは、自分が意識を失っているあいだに軍病院に運び込まれ、そのまま予備役になってしまうことだった。艦隊に置き去りにされれば、どうしたってそうなる。
  辞令を受けてからわずかひと月のあいだに職場放棄を二度もしでかし、あまつさえ傷病者として任を解かれてしまうようなことがあれば、おそらく適正欠如とみなされ、今後奇跡でも起こらないかぎりまともな任地を与えられないであろう。
  ここはどこなんだろう……馬鹿のように、また同じことを考えた。
  考えることに集中できない。かわりに、軽くあくびが出た。ぐずぐずと眠りの余韻をむさぼるのは、キャッツランド人の悪い性質のひとつである。
  彼の視界にはひとりの男がうたた寝をしていた。その無警戒な寝顔を認識しただけで、すぐに彼の関心はそれた。ああ、誰かいる……思ったのはそんな程度である。


  「少尉殿」


  男とは別の声がした。はっきり別人のそれと理解できたのは、声が女性のものだったからである。


  「少尉殿」


  もう一度、声がした。
  エディエルはぼんやりと見上げていた天井から、声のしたほうへと視線を動かした。身体に力が入らない。


  「少尉どの〜ッ」


  うす茶色の耳をピンと立てて、キャッツランド人が飛びつくように駆け寄ってきた。制服は看護兵のものだった。
  そばかす顔が鼻先にくっつくほどに近づいてきて、予想外の抱擁がエディエルを包んだ。


  「少尉どの、少尉どの、少尉どの〜ッ」


  異性との、肌を直接接するようなコミュニケーションは、あまり経験がない。これほど濃密な接触は、ニオール提督とでさえ、数えるほどしかなかったはずだ。
  まるでぬいぐるみでも扱うようにしがみつかれて、ぐりぐりと頬を摺り寄せられた。


  「少尉どのが目を覚まされた!」


  よほど感極まったのか、看護兵は泣いているようだった。
  ここはどこなのだろう。自分は今どんな状況におかれているのだろう。
  知りたいことはいくつもあったのに、エディエルが最初に口にしたのは、


  「きみは?」


  という問いだった。彼女の体温が、柔らかさが、いままで一度も味わったことがないほどの安堵感を彼に与えた。現実に引き戻されて間もない彼の不安定な心を、彼女は激しく揺り動かした。その瞬間、彼女は彼の世界のすべてでさえあったろう。いつまでもそのまま抱かれていたいと、彼は真剣に願った。


  「タンダ二等兵であります。ほんとうに、お目覚めになられたのですね!」
  「ここが精霊の御許でないのだったら……たしかに自分は生きているようです」


  意外にしっかりとした言葉を口にしたためか、看護兵は急にわれに返ったように、身をもぎ離した。


  「しょ…少尉どの」


  看護兵は、ぼろぼろと涙をこぼし始めた。


  「自分は……自分はずっと、少尉どのに付き添って」


  よく見ると、その顔はいくつも青アザができ、腫れあがっている。前歯も折れている。髪の毛もくしゃくしゃで、身だしなみに厳しいキャッツランド軍人とは思われないほど、服も着崩れた感じがした。
  彼女がどのような境遇にあり、どんな仕打ちを受けつづけたのか、ありありと想像することができた。彼女は泣きながら、彼の意識が回復したことを奇跡だといって何度も何度も精霊に感謝を捧げた。おのれのことなどまるで顧みもせずに、ひたすら喜びをあらわした。


  「あ…りがとう」


  エディエルはタンダ看護兵の手を取り、引っ張った。今度は、彼のほうから抱きしめた。
  フェロモンが匂い立った。意識が飛びそうになっても、彼はかまわず抱きしめた。そうした確かな感触が、命の実感を与えてくれる気がしたのだ。


  「ぼくは生きてる」
  「少尉どのッ」


  彼の抱擁に応えるようなタンダ看護兵の激しい抱擁が、呼吸を圧迫した。
  エディエルは咳き込んで身をよじったが、興奮にとらわれているタンダ看護兵は気づかない。彼女が、耳たぶをかじった。


  「痛い」


  エディエルはか細い悲鳴をあげた。
  それは小さな悲鳴であったが、耳元で起こったその声が、タンダ看護兵を見えない鞭で打ったようだった。背筋を伸ばした彼女の視線が見下ろしている。キャッツランド人独特の縦に長い瞳孔が、またたびでも嗅いだように小さくなっている。耳たぶがじくじく痛んだ。
  彼女もキャッツランド人の本能に仕掛けられた呪わしい魔法にとらわれているようである。紅潮した彼女の顔が、ふたたび近づいてくる。
  エディエルは腕を突っ張ってさえぎろうとした。が、力のない拒絶など、片腕の力でやすやすとやり過ごされる。


  「タ…ンダさん」


  唇が重なり、二人の歯ががちがちと当たった。


  「タンダ!」


  口の自由が回復した一瞬をついて、彼は悲鳴のように名を呼んだ。とっさの叫びであったが、それでようやく彼女の瞳を覆っていた霧が晴れていった。
  タンダ看護兵はふらりと床に尻餅をついて、「あっ」と漏らした。そうして、赤面した顔につつと鼻血を流しながら、動力の切れた自動調理器のように固まってしまった。
  そのとき部屋のドアが開いて、若い男がひとり、ずかずかと入り込んできた。


  「目ェ覚ましやがったか」


  よく宇宙焼けした浅黒い顔に、黒い髪。
  深宇宙の淵のように真っ黒い瞳を見開いて、エディエルの顔を間近で見下ろした。
  脳裏にまざまざと刻み付けられた、ムートン錨地で出会った海賊のそれと符合する顔かたち。思い出しただけで、頭痛を覚えた。
  ナイトウォークのスベン。そう名乗った海賊。
  その青年が、まだうたた寝をしている仲間の頭を拳骨で殴りつけた。殴られた男はベッドの端に突っ伏して、転換シャフトの駆動音のような低いうめきを漏らした。


  「目が覚めやがったのなら、もう医者はいらねえな。…ロン! ポルコ! ネコ女の医者どもを入れるのは中止だ。分かったか!」ドアの外のほうへと、青年が怒鳴った。


  その黒い瞳がふたたび、じっとこちらを睨んでくる。エディエルは無意識にシーツを掴んで、身体に引き寄せた。人を殺すことなどなんとも思っていない、残忍な海賊の眼差し。


  「少尉…どの?」


  不安げなタンダ看護兵の声。


  「オレさまを覚えていたか。べそっかきの副官どの」


  忘れるはずがない。ムートン錨地で彼をかどわかそうとした極悪人である。クーロン・シンジケートの生き残りであり、彼の無二の上官であるニーナ・ニオールを亡き者にしようとたくらむ許しがたい犯罪者だ。
  こいつはその危険な精神のありようばかりでなく、白兵戦闘の技術においても油断ならない相手だ……それを身体が覚えていて、自然、四肢が緊張した。
  青年は少しのあいだエディエルを見下ろしていたが、つと立ち上がると、目を覚ました見張りの海賊をまた小突いて、「役立たずが」と怒鳴った。


  「すいやせん、お頭」
  「監視にもう二三人つけておけ! このガキは見てくれは虫も殺せねえなよなよの奴だが、暴れだしゃほかのネコ女どもと変わりゃしねえ」


  二科時代、教官に誉められたこともある自分の体術を、この男はなんなくいなして制圧した。あのときの恥辱が、身奧によみがえってくる。


  (自分は、恥ずかしいくらいに弱い)


  もっと身体を鍛えなければ。もしも自由の身になることができたなら、ケイティ軍曹に身体の鍛え方を教えてもらおう。次にあの男とやりあったときには、遅れをとらないように…。
  やがてドアが閉まり、スベンの姿が見えなくなっても、いったん激しくなった動悸がなかなかおさまらなかった。
  状況が腑に落ちた。
  気を失っているあいだに失われた時間の連続が、彼のなかで結び合わさったような気がした。ムートン錨地で打ち倒されたあの状況から、まだ彼は脱出を果たしていないのだ。やがてあの海賊に、手慰みに生皮を剥がれるに違いない。


  「タンダさん……服をください」


  いつ、なにがあっても、せめてキャッツランド軍人としての威儀ぐらいは正しておきたい。たとえ役立たずの半人前だとしても。






  「いま少尉殿が、お目覚めになられました」


  通信士のシャーリーが、声をうわずらせた。
  彼女がセレクトし、大映しになった映像が、カーリカーン艦橋にいるすべての人々の熱狂を解き放った。


  「エディ…」


  感極まったように天を仰ぎ、ニーナは精霊の守護に感謝を捧げた。
  海賊艦には、持ち主たちも知らぬ監視カメラが数百台設置されている。艦内施設のすべてをその監視下に置くに余りある数である。囚われた専任副官、エディエル・ヴィンチ少尉の閉じ込められた部屋にも、正・副ふたつのカメラが設置されている。肉眼では感知不能の、第九艦隊技術者たちの力作である。


  「よかった……ほんとうに」


  途方もない喜びを身内に詰め込もうとするように、ニーナは指揮卓の上でおののいた。まるで次元断層に迷い込んだ不幸な宇宙船乗りが、長い漂流のあと忘れかけていた星々のきらめきのなかに不意に踊り出てしまったような、戸惑うほどの興奮と歓喜。
  朗報はまたたくまに艦隊全体へと伝わり、ニーナ宛の祝電が各艦艦長から次々に舞い込んだ。少しでも面識のある者たちは抱き合って喜び、そうでない者たちもお守り代わりにこっそり持ち歩いていた少尉のホロにくちづけした。
  エディエル・ヴィンチ少尉の様子はリアルタイムに配信され、おそらく第九艦隊四十万将兵の半分以上が『アタルゴウ』少尉関係サイトにアクセスした。『アタルゴウ』自身が「業務処理に負荷が掛けられている」と不満を申し立てたが、聞く耳を持つものはむろん皆無である。


  「あとは、エディを救い出すだけね」


  ようやく緊張から解き放たれたというようにシートに腰を沈めたニーナは、顔を両手でごしごしとこすった。


  「提督」


  喜色に染められた艦隊で、冷静さを失わなかった数少ない例外のひとりクオン・ニムルスが、淹れたばかりのクレモンティを差し出した。


  「どうぞ。とっておきのものです」
  「ああ、ありがとう」


  キャッツランド人がもっとも好む発酵茶のひとつ、クレモンティの澄んだ甘い香りを鼻にくゆらせてから、ふうふうと忙しく息を吹きかける。猫舌はキャッツランド人の数少ない弱点のひとつである。


  「派遣予定の軍医たちの乗船を拒まれました。医療器具に偽装した武装の持ち込みは失敗しそうです」
  「そうね。どうしようかしら?」
  「強制突入させる準備はすでに整っています。まだ敵船内の制御系の一部は我々の支配下にありますし、プランBの実行に支障はありません」
  「タイミングが肝ね。…船内のやつらの動きを逐一監視しないと」
  「いろいろと海賊どもの肝を冷やすような仕掛けはしてあります。うまく使えば、こちらからやつらの行動をコントロールできるでしょう」


  クレモンティをゆっくりとすすって、思考のパズルを脳裏に組み上げようとしていたそのとき、喜びにざわめいていた艦橋に、冷や水を浴びせるような通信士の声が響いた。


  「提督! 敵艦隊から、二等級戦列艦一隻、四等級フリゲート艦二隻が接近してきます。船籍はシカン国とルーエン国のものです。辺境諸邦連合の名で、会談を申し込んできていますが…」
  「会談…?」


  ニーナは眉間に皺を寄せた。


  「代表はバーキン・ルーサ。モンク国の戦時特別大臣と名乗っています」


  モニターに、その人物の諸元情報が現れる。前歴は、駐キャッツランド大使。開戦前後に、よくホロニュースに出ていた顔で、見覚えがある。


  「どうして外国人は、こうもぶさいくが多いのかしら」


  艦隊司令官の不穏当な発言に、ニムルスが咳払いして応じる。


  「彼らは猿人種ですから」









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