『人類王国物語 ゴンドワナ史』





  第一話    『殿試』












  ゴンドワナ世界は、ひとつの大きな陸塊と、その周辺の大洋とでできていた。
  大陸の名は、アルカーディア。大洋の名はセレーン。ともに、「最初の民」たちが命名した名である。
  その「最初の民」たちを祖として、人類王国は興った。王国誕生を起源とする王国暦は、現在を325年とする。現在の王ダフロス五世は、歴代24人目の国王となる。
  母なる川、大メナムの肥沃な河口部最大の中洲には、人類王国発祥の地であるとともに過去現在を通して国王の御座所と定められた城塞都市ウルクがある。東西に3キロ、南北に4キロの、人口5万を有する人類王国最大の城邑である。


  「トレゴレン卿の部隊が帰着しました! …トレゴレン卿は存命です!」
  「連絡! 連絡!」


  もう一旬巡も前から、ウルクへの難民流入が続いている。
  王宮はけして認めようとしないが、三年前まで大陸の東平原を制していた人類王国の版図が、穴のあいた浮き袋のようにどんどんしぼみつつあることを人々は知っている。
  どこへいっても家を焼かれた難民があふれていた。侵略者たちの暴虐から彼らを守るはずの王国軍も、各地で連戦連敗、せいぜいつかの間侵攻を食い止める肉の壁になっているに過ぎない。
  大メナムの水壕の向こうにあるウルクの城邑に渡るには、渡しの船を使うか橋を使うしかないため、今日も入城の許可を待つ難民たちで河岸はあふれ返っていた。


  「とうちゃん! どこなの、とうちゃん!」
  「えい、邪魔だ! どかんか!」


  戦地から命からがら逃げてきた王国兵たちが入城待ちの列を作るなか、親や夫、兄弟らを兵士に取られた者たちが、求める姿を探して人ごみをさまよっている。父親を探しているらしい子供がひとり、誰かに突き飛ばされて「あっ」と悲鳴をあげた。


  「こっちは貴族専用の通路だ。下層民ふぜいが、身のほどをわきまえぬか!」


  戦場帰りとはとても思われぬ、汚れひとつない軍衣が、人の形をして子供の前に立っていた。鬢油をつけてよく手入れされた口ひげと、肉付きのややよすぎる色白な顔が、蔑んだ冷えた目で子供を見ていた。典型的な王国貴族である。


  「警備責任者は誰だ! 貴様か」


  貴族は渡し門の警備監督を目ざとく見つけると、つかつかと歩み寄って居丈高に文句を浴びせ掛けた。大橋のたもとには二つの門があり、ひとつを貴族用、もうひとつをそれ以外の身分が使う通用門と定めている。わずかな数の貴族が使う専用口であるから、混雑を極めるもう一方の入り口とは異なりひどくすいている。警備兵たちがどれだけ苦労しようと、膨らむ難民や兵士たちの人だかりがそちらへ広がるのを押し留めることは難しい。


  「何のための警備監督だ。命令を聞かぬようなやからは監獄にでもぶち込んでしまえ! 国王陛下のおんために身を削っている我らの労苦も知らず…」
  「トレゴレン卿! お見えでしたか」


  どうやらこの肥満の貴族は、逃げ帰ってきた王国軍の一隊の指揮官であるらしい。目線を合わさぬようにうつむいている兵士たちの様子から、その暴君ぶりがうかがえるようである。
  迎えにやってきたらしい王宮の役人が、豪奢な馬車に貴族を導いてゆく。それに向かって敬礼する警備監督以下警備の兵士たち。


  「あれがトレゴレン侯爵家の…」
  「『百の目』のトレゴレンといや、王宮でも有数の大術士じゃあないか」
  「いやいや、そりゃ大昔の祖先の話だ。息子は親の七光りがなけりゃ殿試も合格できない愚物らしいぞ。…そもそもいまの王宮になんざ、本当に力ある術士なんて『先の手』のゴセン将軍ぐらいしかいないのさ。でなきゃ、王国がこんなに負け戦続きのわけがねえ!」
  「力がなくても貴族様になれるのかい? 何のための試験なのさ? あたしらがこんな思いをしてるってのに」
  「ばか、声が大きいぞ」


  そうした人々の声が警備兵らに届いていないわけがない。いくさが始まる前なら、警備兵もまなじりを吊り上げて暴言の報いを彼らに与えたことだろう。近頃、兵士たちは下層民に同情的である。王国軍の兵士であるとしても、その出身は全員が下層民であった。
  貴族に突き飛ばされて、呆然と坐り込んでいた子供は、難民のひとりに助け起こされて立ち上がった。
  いまにも泣き出しそうな顔をごしごしとこぶしで擦って、子供は貴族の背中を見送った。貴族の怒りは下層民にとって非常に恐れるべきものである。どんな理不尽な理由であっても、彼らは下層民のひとりやふたりすぐにでも破滅させることができる。『力ある者たち』に与えられた王国法上の特権は、恐怖に足る絶対的なものなのだ。


  「あんた、父親を探しているのかい? 名前は?」


  王国軍兵士のひとりに聞かれて、子供ははこくりと頷いた。


  「バイア桟橋のオルバ」
  「バイア桟橋のオルバだそうだ。知ってるやつぁいるか」


  その兵士が声をかけると、入城待ちの兵士たちのあいだにまたたくまに「バイア桟橋のオルバ」という言葉が行き渡った。そこここで「知らない」と首を振って見せる者が多い。


  「オルバなら同じ隊にいたが、負けて散り散りになった後はわかんねえな! ここにいねえなら、悪いがもう見込みがないかもしんねえ」そんな答えも返ってくる。手ひどい負け戦のあとである。ここまで逃げてくるだけでも、おのれの身ひとつ守るので精一杯だったに違いない。
  「千人いた部隊が、いまはもう三百もいねえんだ。ここにいるやつより、死んだやつのほうがずっと多い……まったく、ひでえ戦場だった。ドワーフどもを一匹殺るたびに、オレたちは何十人と殺られた。先に逃げ出しやがった貴族どもの盾にされて、死人はどんどん多くなった。運のいいやつだけがここまで逃げ延びられた」


  頭と左腕に包帯を巻いた兵士の痛々しい姿は、語る言葉に非常な説得力を与えている。
  子供はその兵士をきっと睨み据えて、「とうちゃんは死んじゃいないさ!」と叫ぶと、やみくもに駆け出した。渡し門の前にあふれている人の波は、見渡すかぎりの河岸に延々と伸びている。父親の安否を知る人間がこの中にいる可能性は、まだ十分にあるように思われた。
  ウルクの都では、この子供のような戦災孤児があふれている。父親の死を受け入れようとしない子供のかたくなな姿は、たたかいに疲れ果てた人々に哀れをもよおした。失った家族のことを思い出してか、すすり泣く兵士や難民の姿もある。


  「この先、わしらはどうなるんかねえ」
  「分かってるのは、あんなくそ貴族が上に立ってるあいだは、まるで見込みがないっていうことさ」


  出陣した兵士は五体満足で半分も戻ってこないのに、それを指揮する貴族にはいまだひとりも死傷者が出ていないと、近頃まことしやかな噂が流れている。
  少なくともいまここにいたすべての人間が、その噂を真実だと感じていた。






  「閣下! ここはお退きください」


  血と汗の臭い。ふいごを鳴らすような激しいひといきれと罵声、阿鼻と叫喚が辺りに満ち満ちている。
  ときおり目の前を禍々しい死の風が通り過ぎる。血と人脂でぬらりと光る敵の戦斧である。巨大な獣人の肉体が、さながら家畜を襲う灰色熊のように友軍の血肉を求めてそこかしこで荒れ狂っている。
  ドワーフ人戦士。
  身の丈三メートルにも及ぶ巨大獣人の戦斧は、たやすく王国兵士を甲冑のうえから両断する。しかもその針金のような剛毛と筋肉で覆われた体は、兵士の剣をやすやすとは受け付けない。
  並々ならぬ打撃力と的確に急所を狙いうる技術がなければ、ドワーフ人を相手に剣を振るうなど自殺行為であり、実際に多くの王国兵士は、死を賭さねば一撃すら与えることがかなわなかった。
  わあっと、傷だらけの王国兵士たちの間から、悲鳴ともつかぬ声が上がった。


  「砦が…!」
  「ここももうだめだ! 砦が陥ちた!」


  兵士たちの見上げる樹間にそびえる、年ふりた石造りの砦が、見る間に黒煙をもうもうと上げ始める。この地に根付いて営々と築き上げてきた人々の歴史が、瓦解し灰となる瞬間がいままさに現実のものになったことを、彼らは悟らざるをえなかった。


  「閣下!」


  叫んだ兵士の一瞬の隙をついて、ドワーフの戦斧がその命を血しぶきに変えた。いよいよ獣人たちも、この戦いが終局を迎えつつあることを悟ったに違いない。口々に咆哮する獣人たちのただならぬ様子に、王国軍は震え上がった。


  「退けぃ! グランピークは放棄する! カレス砦まで後退し、体勢を立て直す!」
  「しんがりはラタン隊で!」


  王国軍総指揮官の漆黒のマントが馬上でひるがえると、その周囲を囲む親衛隊の騎士らが次々に剣を振りかざし、「後退」、「後退」と繰り返した。人類王国軍は、形ばかりの秩序を保ちながら、もはや失われた王国領シェーン州からの退却を始めた。
  人類王国軍の最精鋭にして最強の騎士団、聖十字騎士団の総勢は三千余。突如始まったドワーフ族による大侵攻に対する王国防衛の切り札として、国王ならびに王国の民たちからも期待の高かった彼らであったが、獣人の恐るべき戦闘力とそのテリトリー回復へのあくなき熱情とに、予想以上の苦戦を強いられていた。


  「やはり獣人相手に、平地でやりあうのは難しゅうございます。城や砦の守備拠点によって戦ったほうが……閣下?」
  「獣人どもがこの戦いをなんと呼んでいるか知っているか? レザック」


  聖十字騎士団長ゴセンは、隆々たる体躯を馬上に揺らしながら、大剣についた血脂をおのれのマントの端でぬぐった。部下たちが束になっても太刀打ちできぬ頑強な獣人を、この騎士団長がいったい何人ほふったのか正確に把握しているものはいない。王国最強の騎士団の団長は、同時に王国で並ぶもののない剣の達人でもある。
  騎士団員たちが畏敬するこの英雄の問いに、副官のレザックは「いえ」と控えめに応えた。


  「獣人たちは、この大侵攻を「聖戦」と呼んでいるそうだ。たいそうな言い方だが、それでも筋は通っている。この一帯は、もともとやつらの封土であったのだからな」
  「はるか昔のことにございます。最初の民が奇跡の技で地を払われたまい、人類王国の礎を築かれました。いまは王国の封土でございます」面頬の中の副官の顔は、生真面目に団長の横顔を見つめている。
  「ついさきほど、またやつらの土地になったがな」


  敗走中であるとはとても信じられないほど悠然と馬を走らせるゴセンの前に、回りこんできたらしきドワーフ族戦士が踊り出て、周囲の騎士たちが色めきたった。それを手出し無用とばかりに自ら馬を進めたゴセンは、愛用の大剣を抜き放って敵の斬撃に合わせた。
  体格に倍するドワーフ族戦士も、人馬一体となった一撃によろめいたが、背中を樹幹に弾ませてすばやく体勢を立て直した。ドワーフの頑健な肉体があってこその戦法である。
  息つくひまもなくゴセンは二の太刀を繰り出す。その一閃は切り株のようなドワーフの足をなぎ払うが、その針金のような剛毛が斬撃を減殺する。ドワーフ族の男は、みな優れた戦士である。おのれの血肉と引き換えに、ドワーフは敵の大将に向けて必殺の一撃を繰り出していた。親衛隊の騎士が顔色を変えた。


  「閣下…!」


  攻撃の交差した瞬間、背中から斬り下げられたドワーフの戦斧を、まるで後ろに目があるかのように身をひねってかわし、ゴセンは馬を急旋回させた。親衛隊のひとりは、そのときゴセンが口笛を吹いているのを聞いて、幽霊に出くわした子供のように身震いした。


  「『先の手』のゴセン将軍…」


  そうなのだ、この騎士団長は、戦いの何手も先を瞬時にして読み取るという。この数日に及ぶいくさの間、ゴセンは常に陣頭にありながらかすり傷ひと負ってはいなかった。『先の手』と呼ばれる技を、ゴセンはまるで呼吸するかのように自然体で使う。
  体勢を崩したドワーフに、ゴセンは馬体をぶつけて突き倒すと、一撃でドワーフ族の弱点のひとつである喉を一突きにする。


  「脚を止めるな! 獣人に統制は取れていない! 包囲を一気に抜く!」


  絶大な生命力を持つドワーフ戦士が息をふき返したりせぬうちに、親衛隊の騎士らがその体を念入りにひづめにかける。まだ命があったらしいドワーフの体が痙攣する。


  「あまり無茶をなさいませぬように」
  「大陸の種族社会は、非常に明快で分かりやすい上下関係がある……わが王国の民は、なんとその最下級にあるそうだ。序列の上位のものは、下位のものにどのような要求も仕打ちもしてよいことになっているらしい。ドワーフどもにしてみれば、最下位の人間にこれほど抵抗されるのは不本意であったろうな」
  「人間が最下位などと、そんな馬鹿な……最初の民の大征服時代に、一時とはいえ大陸の東半を制覇したのですぞ! ユーリウス大王は大陸の百種族を臣従せしめ…」
  「その頃から世代はいくつも代わった。奇跡の技をほとんど失ったわれらなど、精強な野人どもから見れば不当に土地を占有している無知な野ネズミにしか見えぬだろう。『魔術の民』と呼ばれて恐れられた時代は遠い昔だ」
  「われわれはまだ『術』を失ったわけではございませんぞ」
  「失ってはいないが、無視してよいぐらいに弱くなった。やつらはそう思っているだろうさ。その認識は間違ってない。われらは平和の惰眠をむさぼっているあいだに、母なる聖霊の寵愛を失ったのだ。劣者必敗……まさしく種族社会の序列どおりに、われわれはこうして苦境に立った」


  ひどい敗け戦のさなかの騎士たちがいまだに秩序を保っているのは、常に陣頭に立って敵と切り結ぶゴセンのゆるぎない存在感に心の支えを見出していたからである。副官との馬上でのやり取りに、親衛隊の騎士たちは耳をそばだてている。自ら立てる馬蹄の音でほとんど聞き取れもせぬだろうに、まるで彼らは父親の説諭を待つ子供のようでもある。


  「…種族社会には、序列下位のものが上位者に挑戦するための儀式があると聞いた。双方の立てた代表の戦士が、生死をかけて力と技を競い、その勝敗で種族間の新たな序列関係を築くらしい」
  「まさか、閣下…」
  「何を驚いている。そのまさかだ。新たな死人を次々に作り出し、恨みつらみで続ける不毛な争いよりも、尊敬と友愛のうえに築かれる不公平な隣人関係のほうが何層倍もましだ。わたしは機会を見つけてこの儀式を行いたいと思っている。いや、必ず行わなければならない」


  ゴセンはいままさに炎を吐き出し始めたグランピークの砦を振り返ると、呪詛のごとく何事かつぶやいて、馬に拍車を入れた。
  これでまた、王国の土地がひとつ没した。櫛の歯が抜けるように、わずか数ヶ月のあいだに次々に周辺領を失い、人類王国は予想だにしなかったペースで衰亡の坂を転げ落ちている。王国最強の聖十字騎士団の全力をもってしても、その怒涛のような流れを食い止めることはできなかった。一年を待たずに王国が滅亡すると警告を発し、国王の不興を買って処刑されたひとりの学者がいたが、その警告がまさに正鵠を射たものであったことを騎士たちはもはや疑わなかった。


  (やつらはわが王国がこの大陸から影も形もなくなるまで、けして攻撃の手を緩めはしないだろう……いま一度われらは種としての威を示さなくてはならぬ。しかし先生もおっしゃっておられたように、儀式を勝ち抜くにはわたしひとりだけでは足りぬ)


  たった数千人ばかりの獣人に蹴散らされたうえに、敵の現有勢力すら完全に把握していないていたらくの人類に、勝ち残るだけの力があるとは想像し難い。大陸の主人と思い上がり、安閑と備えを怠ってきた人類に対するこれが聖霊の答えなのだろうか。
  もはや獣人たちの侵攻を食い止めるすべを、人類王国は選択の余地がないほどわずかにしか持ってはいない。徹底抗戦して篭城し、救いのない緩やかな衰亡と断絶を受け入れるか、それとも主権を放棄して獣人の奴隷と成り下がるか…。
  人類王国の開闢から三百余年、ゴンドワナ世界は大いなる試練を人類に与えようとしていた。






  ***






  「今年の本試験、もうすぐだな」
  「見たよ、国王の布令だろ? …いつもの年よりだいぶん遅れたけど、いくさいくさの最近じゃ、仕方ねえからな。おいら、あれからずいぶん練習したんだぜ。貴族の技塾をちょいちょい盗み見て、技だっていくつか使えるようになったんだ」


  空の樽や材木が積まれた片隅の暗がりに、一瞬ほのかな光が生まれて、まだ声変わりを迎えていない幼い声たちが喝采した。夜の星明りほどに頼りない光であったが、冷涼とあたりを照らしたのもつかの間、空気に融けるように消えてなくなる。


  「それって、『鬼火』ってやつだろ? 知ってる! 知ってるよ、それ!」
  「集中して、まわりの火精をこうやって手で掴み寄せる感じで集めてくるのがポイントなんだ。そいつを集めたら、袋かなにかに詰めたつもりで、口から少しずつ燃やすんだ。いっぺんに燃やしたら、すぐになくなっちまうからな」
  「すげえ、すげえ」


  やんややんやと騒ぎ立てる子供たちのあいだで、技を披露した子供は一躍ヒーローになったが、叱るような「テテル」の一言で、子供たちの騒ぎは収まった。


  「マルカ姉」
  「本試験じゃ、そんな技なんか持ってたって役に立たないわ。試されるのはもっと基礎力みたいな単純なこと。昔のえらい大術士が言った言葉を知らないの?『敬うべきは百術に通じる知者にあらず、一技を磨きつづける愚人である』よ。どんなに技を知ってたって、手持ちの魔力がからきしじゃ、殿試の試験官にゃ相手にだってされないわよ」
  「なんだよ、すんげえ技じゃんか。マルカ姉だって、ほんとは驚いて…」
  「じゃあ、あたしと力比べしてみる? いいんだよ、あたしはいつでも。いつものアレでいいだろ?」
  「うっ…」


  そこは露店商たちがテントを連ねる、バザーの片隅である。めっきりと人出の減った閑散としたバザーには、開いている店も少なかったが、それ以上に店先に並ぶ商品の数も少なかった。食料の調達が難しくなり、値段も目が飛び出るほどに高くなっている。
  飢えた子供たちは目だけをぎらぎらさせながら、食べ物を狙ってバザーを徘徊しているのだが、露店商のほうもそうした浮浪児たちの悪さを承知しているから、大事な食料は店の奥にしまいこんで、「食料あります」のたて看板だけを出していたりする。
  にんじん色の髪を肩で切りそろえた勝気そうな少女が、まわりの年下の子供たちに目配せすると、すぐに水を満たした鋼の器が現れる。子供の頭ほどもある器は、おそらく酒場で使われる酒盃か何かであろう。水はすぐ目の前を流れている、街中を縦横に走る水路から掬ってきた。
  にんじん色の髪の少女……マルカがひとつを自分で取り、もうひとつを相手の少年に押し付ける。明らかに少年は受け取るのを嫌がっていたが、マルカが「怖いの?」と言うと、おずおずそれを両手に抱えた。


  「マルカ姉とテテルが『我慢くらべ』始めるぞ」
  「テテルのやつ、マルカ姉にかないっこないのに無理しやがって。このまえ大やけどしたばっかじゃねえか」
  「でもわかんねえぞ。テテルのやつ技塾ですげえ技を盗んできたからな」


  ふたりは地面に対座してにらみ合っていたが、「始め」の声と同時に身じろぎひとつしなくなった。雨の後のむわっとする空気のように、緊張感があたりを包んだ。
  テテルは見る見る顔を紅潮させ、マルカのほうは見開いた瞳を少年の手の中の酒盃に注いでいる。変化が訪れたのは、この奇妙な試合が始まってしばらくしてからのことであった。


  「おい、見ろよ。立ってきたぜ」
  「マルカ姉のたてがみだ」


  まるでいきり立った野良猫が相手を威嚇するように、マルカのにんじん色の髪が逆立ってくる。その見開いた瞳は、いまにも炎を吹き出しそうだ。


  「あちッ」


  相手の少年が水の入った器を放り出して転がるように退いた。
  地面にはねた器は中身の水……いやそれはいまやもうもうと湯気を立てる熱湯にほかならない……は、周囲に飛び散って子供たちに悲鳴を上げさせた。
  いつどこで、器の中身がお湯になったのか、手品のようでいて実は種も仕掛けもない。その作用を生み出したなにかを、子供たちは『魔力』と呼び、行為自体を『技』とか『魔法』とかいった。それはこの世界では、何ら不思議な力でも怪しげな技でもなかった。


  「この前商人会館でやった予試じゃ試験官もそのへんの下っ端役人で結構いいかげんに見てたし、多少目立つことでもすれば目にもとまっただろうけど、本試験じゃそんなごまかしはきかないんだよ。もっとキソ的な力が試されるんだって、果物屋のばばあが言ってた。だから、まっとうな教育も受けてない垢くさい浮浪児なんざ、受かりっこないんだってサ。上等じゃないか! あんたもそんな小器用なことばっかやってないで、もっと真剣に魔力を練る訓練してな!」
  「悪かったよ。マルカにゃ勝てねえ」


  子供の間の力関係は、単純かつ明瞭な「どちらが強いか」で決定される。ここウルクの大市場で幅を利かせる不良少年たちのあいだで、このにんじん髪の少女は一目も二目も置かれる存在だった。それはただひたすら、『魔力』の力が抜きん出ていたからにほかならない。


  「…しっかし、腹減ったなあ」
  「もういまどき店先に食い物ぶら下げてる店なんてなくなっちまったからなあ。あとは貴族のヤツラみたいに押し込み強盗みたいなことするほか手に入れる手立てはねえぜ」
  「今朝がたも、ルカンニのばばあンとこが貴族の手下どもに押し込まれたらしいぜ。食い物洗いざらい盗み出して、ヤツラいくらお金置いてったと思う? 銅貨三枚だぜ! ンなはした金、いまどきクズ野菜の葉っぱ一枚だって買えやしねえってのに!」
  「貴族様になりゃ、なんだってやりたい放題なのさ。だからあたしら、貴族様になる『試験』受けるんだろ?」


  人類王国には『殿試』と呼ばれる制度がある。字義のとおりにそれは王宮、つまり殿上で行われる試験である。国王の宣誓と王国法のもとに人の身分を『聖別』する儀式であり、力ある者は誰でも第一身分(貴族)として取り立てられ、力なき者はたとえ王侯貴族であろうと第二身分(下層民)へと落とされる。王国は専制君主の体制をとるが、チャンスはすべからくすべての民人に与えられる。それが王国内での平等であり、超人思想を尊ぶ人類王国の建国以来の理念でもあった。
  人類王国の民にとって、その試験は一世一代のイベントであった。試験の合否がまともに、それ以後の人生に隔絶的な影響を与えるからである。


  「マルカなら、絶対合格するって」
  「テテルだってそうだ」
  「リンもがんばるから!」


  試験は満十三歳を迎えた子供たちに対して行われる。
  貴族や資産家の子弟は技塾と呼ばれる公私の訓練施設に通っている。専門の知識と技術指導を施される彼らは言うまでもなく試験で優位にあるが、天与の才は貧しい者たちにも微笑むことがある。飢えた子供たちは、ぐうぐうお腹を鳴らしながら未来の夢を食べて空腹を紛らわせた。
  少年のひとりが、手製の網を取り出して、「魚取りに行くか」といった。どんなに食料が不足していても、ウルクの城塞の外には母なるメナムの流れがある。道具さえ何とかすれば川魚ぐらいは手に入れることができた。いまの彼らには、その泥臭い小魚が貴重な糧であった。






  * * *






  『殿試』は、五種類の試験から構成される。
  世界が五素(地・水・火・風・空)でできているという思想に由来し、




  『賢遊』
  『水甕』
  『陽点』
  『臼砲』
  『法輪』




  の五つが正試験である。このため、『五試』と呼ばれることもある。
  国中で行われる『予試』を及第した子供たちが、国王の御前で行われる『本試』に挑むことができる。いわゆる『殿試』とは、この国王の御前で行われる『本試』を指す。
  『本試』に進むことができる子供は、十人にひとりといわれ、それぞれの郷里では神童などと呼ばれていたであろう子供たちが王宮に集う。彼らは『選子』と呼ばれ、それだけでも世間に誇るに足りるといわれた。
  貴族や富裕な商家は子供が『選子』に選ばれると、一世一代の晴れ舞台とばかりに一族郎党を集めて盛大な催しを行ったし、貧しい家の者でもこの日のためにわずかな蓄えを放出して通行人に酒ぐらいは配るものであったから、試験前の数日間ウルクの街は独特のお祭り騒ぎになった。
  普段の年ならば、町の目抜き通りには甘い匂いを漂わせる露店が建ち並び、立錐の余地もないほど大勢の人がお祭りのおこぼれに預かろうと詰め掛けるのだが、いくさ続きの非常事態にある王国には、そんな余裕などあるはずもない。


  「今年はもうやらないのかと思ったよ」
  「祭りもできなくなるようじゃ、王国の行く末も暗いもんだと思っていたけど、王宮も意地を見せたもんだ。いつもと比べりゃ、だいぶんと寂しい祭りになっちまったけど…」


  期待半ばに街中にやってきた人々は閑散とした通りをひとわたり見回して、慨嘆した。
  母なるメナムの中洲にある城塞都市ウルクの町は、高い城壁と水門とに囲まれ、洪水の害を避けるために町自体もずいぶんとかさ上げされた高みにある。
  『殿試』の行われる人類王国の王宮は、町の中心の小高い丘の上にあった。女王桃の木が自生する岩がちな丘は、険阻ではないがそこかしこにみっしりと茨が生い茂り、なまなかな侵入者など寄せ付けぬ天然の要害と化している。季節が季節なら、野ばらが咲き乱れて丘が白く染まるほど美しい眺めになるのだが、乾期も間近なこの時期は花らしい花も咲いていない。
  王宮へと続く唯一の道は、石灰石を敷き詰めた石段である。日差しを受けて白く光っている石段の先には、白亜の宮殿が空色のキャンバスを切り取るように建っていた。


  「329番失格。次、前へ!」


  329の札を首にぶら下げた子供が、赤い顔をうつむかせて後ろへ下がるのと入れ替わりに、330の札を下げた子供が前に出る。その一挙手一投足を、食い入るような何千ものまなざしが息を詰めて見つめている。
  試験会場は、王宮の前広場であった。
  そこに今回の試験を受ける有資格者、つまり王国中の十三歳の選子たちがいくつかの集団に分かれ、試験に臨んでいた。
  子供の数だけでも、おそらく千は下らない。そこに列席する王侯貴族とその随員、試験にあたる役人と警護の兵士、試験に臨む子供の親族などまで入れると、全体の人出はその三倍もいただろうか。


  「だめだ。おいら失敗しちまった」
  「そんなの、あたいだって……ちくしょう、あんなでっかい声で驚かすんだもん! 試験官の役人」


  千人も試験しなくてはならないから、当然のようにもう一度やり直しなどという手間のかかることは一切認められない。ぶっつけ本番、しかも一度っきりという厳しい条件が子供たちを否応なく緊張の極限に追いやる。貴族の子だろうが下層民の子だろうが、そのことについては例外はなかったろう。彼らの肩には自分の未来ばかりでなく、親族らの期待や、おのれ自身のプライドまでもが重くのしかかっているのだ。落第者はその時点で第二階級の烙印を押される……その乱暴な選別に、子供の自尊心が傷つかないはずもない。
  試験のひとつふたつ失敗しただけで、子供たちは顔を真っ青にしてぽろぽろ涙をこぼした。そんな子供たちの啜り泣きなど聞こえぬというように、無慈悲な試験官の声が広場にこだまする。


  「330番失格。次、前へ!」
  「ほら、マルカの番だよ!」


  その試験は、長い溝を彫った石の台座の前で行われる、『臼砲』と呼ばれるものであった。
  直線に切った溝のこちら側に赤ん坊のこぶしほどの鉄球を載せ、念を凝らしてこれを押し出す。長さ5フィートはある台座の溝を、鉄球は加速しながら転がり、その先から前方へと投射される。鉄球が何フィート先まで飛ぶかで試験されるのだ。
  にんじん髪をそよ風になぶらせながら、マルカは胸をそらせて立った。その強い意思の光を宿す瞳を台座の上の鉄球に向けて、微動だにしない。


  「始め!」


  マルカは両手を硬く握り締め、にらめっこでもするように頬をぷっと膨らませた。見る間にマルカの髪が、ふわりと逆立ち始める。


  (まずはあせっちゃだめ……十分に力をためて)


  見えない手でつかまれたように、鉄球は前後にゆっくり揺れ始め、石の台座をゴリゴリと削った。
  そしてマルカの目が見開かれた次の瞬間、鉄球はいきなり転がり始めた。


  「ああ! 動いた!」
  「すんげえ勢いだ! あれならきっと」


  仲間の子供たちがあげた喚声に、周囲の注意もマルカの試験に向けられた。
  逃げ出した野良猫の全力疾走のように勢いよく転がりだした鉄球は、台座の端から砲弾よろしく撃ち出された。
  一呼吸ののちにどすんと地面にバウンドし、計測の役人がすかさずそこに走り寄る。


  「やったあ、マルカ姉!」
  「10フィートも飛んじまった! こんなに飛んだの見たの、初めてだぜ! 見ろよ、貴族のお坊ちゃんどもが目ェ丸くしてるぜ!」


  マルカは試験官の「331番、下がれ!」の声で、我に返ったように背筋を伸ばした。おのれの示した力量を確認して、彼女の顔に快心の笑みが浮かぶ。


  「どうだ! 見たか」ガッツポーズをするマルカを、見物の仲間たちがはやし立てる。試験の間、始終肩身の狭い思いをしている彼らである。どの試験でもやはり結果を出すのはちゃんとした訓練を受けた貴族の子弟たちであり、何の訓練も教育も受けていない下層民の子供たちが見劣りするのはやむをえないことであった。そのなかでマルカひとりだけが、互角以上に健闘していた。
  「二等市民が……人様に披露するようなたいした力もないくせに、やいやいとうるさいな」


  身なりも言葉遣いも偉そうな子供たちが、泣くか騒ぐか落ち込むかしている子供たちのあいだを抜けながら、マルカたちのそばを通りかかった。血色のよい肌、下ろしたての汚れひとつない服、櫛をよく通したさらさらした髪が、この子供たちをその他大勢の中から切り離している。貴族の子弟である。
  その蔑みのこもった眼差しを受けて、ほとんどの子供が目線をそらすか俯いた。マルカののとなりであの負けん気なテテルでさえ、その例に漏れず俯いた。ただ、マルカひとりが貴族の子供たちを真っ向から睨み据え、交錯した視線が空中で火花を散らすようであった。


  「少しぐらいは使えるやつがいると思ったら、なんだ、女か」


  意味もなく貴族の子弟たちはけらけらと笑った。


  「あんたたちなんかには絶対負けないから」マルカの宣戦布告もどこ吹く風。おそろしく猥雑な冗談でも聞いたという様子で貴族の子弟たちはげらげら笑って、
  「なんだこの女、おれたちと勝負するつもりみたいだぞ。平民と貴族が対等だとでも思ってるのかな?」
  「はなから勝負にもなってないのに、なに鼻息荒くしてるんだか。まさか下賎の人間が、そう簡単に貴族になれるとでも思ってるのかしら」
  「そうだよ、そうに違いない。とんでもない勘違い女だ」


  子弟たちの言いたい放題に、マルカの周囲の子供たちも面相を変えて立ち上がる。下層民とはいえ、ほかの子供たちも郷里で我が子を自慢してやまない親たちの面子を背負っている。睨み合いを始めた両集団のあいだで緊張感が高まると、周囲の子供たちが慌てて身を退いた。大切な試験の最中にとばっちりを食うのは誰だって避けたいものだ。無力な平民にとって、おそるべき特権を持った貴族たちの怒りを買うことは、人生の崩壊と同義となることが多い。


  「クソ貴族が…!」
  「相手になんかすることないわ。貴族貴族って、別にこいつら本人が貴族に認定されてるわけじゃないんだから。親の七光りで威張ってるだけで、試験が終わったら案外落第して二等民になってるかもしれないしね」


  『殿試』は、才能ある人間を聖別する試験である。評価されるべき魔力を示せば第一身分(貴族)に取り立てられ、逆に見るべき能力を示しえなければたとえ両親が貴族であったとしても分家として切り離され、第二身分(下層民)に落とされる。子供はこの試験を受ける年になるまで、親の保護下で仮の身分を与えられているにすぎない。


  「お、おれたちが降格なんかするわけがないだろう。結果なんか最初から決まってるっていうのに。なんにも知らないやつらはこれだから…」
  「ばか、なにつられて熱くなってるんだよ。こんなやつら相手に真剣になってたら、こっちまでレベルが低く見られるじゃないか。父上が言ってたぞ、人の上下を決めるのは、最後は選ばれた『血』だって」


  マルカの髪が逆立ち始めた。同様に貴族の子弟たちも、両手の指を特殊な形に絡めあわせて姿勢をとっている。一触即発の不穏な空気が流れるなか、固唾を飲んで見守っていた子供のひとりが警戒の声をあげた。


  「何を騒ぎ立てているのだ! 全員試験失格にするぞ!」


  会場を監視していたらしい試験官の役人が、数人の兵士を引き連れて子供たちのなかに割って入った。どんなに偉い貴族の子供だとて、この殿試の試験会場内では試験官に逆らうことはできない。一時とはいえ、彼らの運命をその手に握る神にも等しい存在なのだ。
  貴族の子弟たちは目配せしあって、何事もなかったかのようにマルカの横を歩み過ぎた。


  「おまえの名前、マルカというのか」


  子弟のひとりがマルカを睨みつけてつぶやいた。


  「覚えておくからな」
  「あんたの名前は? 人の名前だけ知っておいて、自分は名乗らないの?」
  「クラウドだ! クラウド・トレゴレン」


  マルカの目が子弟たちの胸につけられた番号札に止まり、興味深げな色を見せた。


  「そろそろあんたたちの番みたいね。楽しみに見物させてもらうわ」


  クラウド・トレゴレンと名乗った少年の胸には、切りのいい『333』の番号札がある。『3』を神聖数としている国教会の信徒であるなら、非常に縁起のいい数字であるといえる。彼の番号を頭にしてほかの子弟たちが連番になっていることから、この子弟たちのなかでもっとも影響力のある人物が、彼と彼の親であることが知れる。
  百の目を持ち、この世のあらゆる事象をやすやすと見抜いたという大見者『百目のトレゴレン』の眷族であるなら、その影響力も理解できる。
  待つほどのこともなく、子弟たちの試験が始まった。
  クラウド・トレゴレンを筆頭に、次々好成績を収めてみせる彼らに、敵意を燃やす浮浪児たちもにわかに言葉がなかった。クラウドにいたっては、マルカの記録を大きく超え、飛距離一五フィートに及んだ。


  (ちくしょう……やっぱ貴族だけのことはあるぜ)
  (マルカ姉でも勝てないよ、あのトレゴレン門には)


  第一身分と第二身分。
  それは高い魔力を持ちえるかけあわせを効率よく行わせるために、人類王国が定めた身分制度である。特権を与えられた者たちは、その既得権を永続させるために、つがう相手を選んで血を濃くしてゆく。おのずと、貴族身分の者たちは才能の神の寵愛をより多く受けた。
  試験を終えたクラウド・トレゴレンとマルカの視線がぶつかった。
  貴族の少年は勝ち誇った笑みを浮かべ、平民の少女は口惜しげに唇を噛んだ。


  「分かったか、オレたち貴族とおまえたち平民の違いが…」


  余裕たっぷりに言うクラウドの口の動きだけを、マルカは食い入るように見つめていた。彼の取り巻きの見下げきったニヤニヤ笑いを見るのは耐えられなかった。彼女が負けたのは目の前のクラウドという少年ただひとりだけであり、しかも負けたといってもたった一種目のことでしかない。
  続く言葉が耳に入ってこなくなり、クラウドの捨て台詞が終わったのかとマルカは思った。だが顔を上げると、そこにはまだ貴族の子弟たちがいる。
  あの不愉快なニヤニヤ笑いが、雑巾でぬぐったようにきれいになくなっている。物思いに沈んでいた彼女は、周囲の異変に気づくのが遅れた。
  突然の夕立のように沸きあがった子供たちの大歓声が、試験会場を包んでいた。


  「だれだ! あいつ」
  「人間技じゃない! あんなにも飛ぶなんて!」


  貴族の子弟たちは、もはや彼女など見てはいなかった。彼らの視線を眼で追うと、いましがた自分たちが終えたばかりの『臼砲』試験にそれは向いていた。
  投射台の所定位置にひとりの少年が立っていて、沸きあがった大歓声に戸惑ったように居竦んでいた。
  よほどすごい記録でも出たのだろうか?
  マルカは投射台の先へと目をやって、すぐに見つかると思っていた鉄球が見当たらないのに目をこすった。飛距離の計測用に30フィートまでは白線が引いてある。そのフィールドの中に鉄球はなかった。距離を計測する係官が途方に暮れたように見やっているその目線の先に、大貴族たちが見物を決め込んでいる貴賓席が見えた。その少し高くしつらえられた客席は、騒然とした状態になってる。彼らが遠巻きにした席の一角に、大破した椅子の破片が飛び散っている。そこが鉄球の落下地点なのか?
  投射台から貴賓席まで、ゆうに50フィートはある。しかも途中鉄球がぶつかったと思われる鋳鉄の水がめが、台から転げ落ちて盛大に水をぶちまけているのが見え、マルカにも鉄球の軌跡が手にとるように分かった。
  もう試験結果は出ているというのに、試験官も例の「次、前へ!」という言葉を忘れて呆然としている。


  「あの……もう戻ってもいいですか」


  そのおそるべき結果をもたらした少年から声をかけられて、ようやく試験官の抜け出た魂が持ち主のもとに戻ってきたようだ。「戻って結構です」 居丈高さが抜け落ちた試験官の応えに、少年は首をすくめて子供たちの集団のなかに戻って行った。


  (誰なの、あの子)


  その少年の身なりは、貴族のそれと明らかに違う粗末な毛織である。それではマルカと同じ、下層民であるということか。
  見物席の貴族も下層民も、この一件にざわめいている。力をもって善とする人類王国の人々に、どれだけの衝撃が与えられたのか推し量るのは容易である。
  マルカも同様に、ある種の畏怖に胸を打たれていた。










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