『人類王国物語 ゴンドワナ史』





  第五話    『超克』












  王宮には、いままで何度も来たことがあった。
  父は王宮でも指折りの有力者で、第一身分の、それも限られた者しかのぼることのできない台宮(上宮殿)に部屋まで与えられている上級貴族である。『百の目』トレゴレン侯爵が登台すると、たいていの者は挨拶に上体をかがめた。


  「『百の目』の御子」


  女官たちは彼をそう呼んだ。それは間違いようもなく、彼を特定、定義する呼称だった。
  クラウド・トレゴレンは、最初の一歩を踏みしめるとき、ほんのわずかだが躊躇した。父親を抜きにして王宮に上がるのは、これがまぎれもなく初めてのことだった。皮の靴底に伝わる感触を必要以上に意識しながら、クラウドはついで両の足を王宮の地につけた。
  門の衛兵が、挨拶に軽く会釈した。たかが衛兵ごときに軽い会釈で済まされるなど、いままでは考えられなかったが、王宮に勤める役付きの用人はその職の貴賎を問わずすべて第一身分の者たちである。貴族になったばかりの若造に対してなら、それでさえ慇懃であるといえた。


  (これが剥き身のクラウド・トレゴレンに対する評価だ)


  いままで王宮で与えられていた敬意は、有力貴族である父の余光でしかなかった。トレゴレンの門地を継ぐまではおのれ自身の力で、地位と名誉を勝ち得ていくのだ。


  「クラウドさま」


  門の影に集まっていた同様の新人貴族たちが、彼のもとに集まってきた。


  「まだ廟堂に行ってなかったのか」
  「みなで一緒に行ったほうがいいじゃないかと思って……なんたって、叙任式だからね」
  「新マイヤール卿は、ずいぶんと気の小さいお方のようよ」


  混ぜっ返されて、『水走り』マイヤール子爵の次男アウグストが顔を真っ赤にした。
  新貴族が国王に忠誠を誓い正式に叙任されるのは、殿試の三日後とされている。それは斎戒潔斎した神官たちが、五素精霊を下界へと下ろすための儀式に三日を費やすためといわれるが、実際には新貴族たちに叙任式の古よりのしきたりを教え込むための準備期間といえただろう。それらの段取りはたいてい親から教えられるものであったが、下層民出の成り上がり組は、親交のある貴族家の門をたたき、教えを乞うたりする。その準備があるために、試験後に三日があけられるのだ。
  クラウドたち貴族の子弟はもとより貴族になることが『既定』とされていたため、準備はさらに前もって入念に行われている。それでもそうした貴族出身のものたちでさえ、緊張を抑えかねるようであった。
  人類王国四百年の歴史がこごったような濃い暗闇のおちかかる王宮の廊下は、権威に耐性を持たない者に重し石をかけたような圧迫感を与える。むろん、幼い頃から王宮に出入りしてきた子弟たちにとってそんな感覚は慣れたものであったが、その彼らとて「親同伴」以外でひとりで王宮に入った経験などむろんありはしなかった。躊躇する友人たちを眺めて、クラウドはかろく舌打ちする。ひとりでさっさと歩き出した彼を見て、友人たちが慌ててそのあとを追ってきた。


  「なにを恐れる必要がある。ぼくらはすでにおのがうちの血の優位性を証明したじゃないか」
  「そ、そんなことは分かってるよ」
  「ここで肩身の狭い思いをするのは、本来おのれのいるべき場所ではないところに紛れ込んだ、まがいものの凡貴族だけさ」


  彼がおのれの「友」として選んだ彼らは、技塾でともに語らうに足りると見込んだ者たちばかりだった。彼らは試験の合格に不正など必要としなかったし、今後もおのれの超人性を示すのに偉大な祖先の名を振り回す必要もないだろう。


  「これは『百の目』の」
  「試験を見ましたぞ。『百の目』の後継ぎ殿」


  普段はそれほど人気のないはずの王宮に、今日ばかりはきら星のごとく大勢の有力貴族たちが登台している。新貴族のお披露目に参列するということもあっただろうが、これだけ集まりがいいのは蛮族に追い立てられて都に逃げ込んだ地方赴任の貴族が多かったのだろう。時間を持て余した彼らがこぞって集まった王宮は、まるで舞踏会の控え室のようににぎやかだった。
  クラウドは、誰かを探すように通りすがる貴族たちをいちいち確認していたが、ふとその目がとまった。


  「もしかしてあの下層民を探してるの?」


  『星見』のエウルコ伯爵の娘フェルミが、その血筋を思わせる察しのよさで、彼が探しているものを言い当てた。エウルコ家は最初の民以来の名流である。彼女は『下層民』という言葉に力を込めた。


  「でもあれは違う『下層民』だよ」アウグストがつまらない野良犬でも見つけたように言い捨てた。


  彼らの視線の先には、初めての王宮に居竦んで立ち往生している船問屋の息子がいた。クラウドは相手の名前を思い出せなかったが、それほど苦にはしなかった。


  「あっ、あの」


  船問屋の息子が、彼らを見つけていっさんに駆け寄ってきた。だれひとり知る者のない王宮の中で、まさしく誰からも相手にされず途方にくれていたのだろう。無邪気に顔を明るくして、同道を願い出た。
  子弟たちは露骨にいやな顔をしたが、クラウドは関心もそぞろに、また求める人物の姿を探した。船問屋の息子は、その無関心が許容のあらわれだと解釈したのか、集団の末尾に遠慮がちに従った。
  王家の廟堂は、国王一族の住まう奥宮とこの台宮の中間に位置する。足下には、歴代王の遺体が安置される地下墓所があり、人類王国のもっとも権威ある儀式は、かならずといっていいほどここで執り行われる。


  (あいつは……どこにいるんだ)


  探す少年の姿はどこにも見当たらない。
  指定された控え室で半刻ほど時間をつぶすあいだも、クラウドはここに姿を現すべき少年を待った。とるにたらない下層民などをなんで気にしているのだとアウグストたちの揶揄を、クラウドはまったく取り合わなかった。


  「あいつはもう一家を興した。貴族だ」


  クラウドの精神世界で、ひとは選ばれた『貴族』と『それ以外』とにきっぱりと分け隔てられている。それは貴族の選民思想を釜で煮詰めたような偏った見かたであったが、身分制のはっきりした人類王国で、それは別段おかしな考え方であるということはなかった。
  必要十分であるのか過剰であるのかは別として、たいていの貴族が同じような価値観を共有している。母なる聖霊により近い超人であることは善であり、賢であり、力であった。
  神により聖別された、より神に近い『人を越えた』存在であるからこそ『貴族』であるのだ。『貴族』のみが尊い。


  「あの『下層民』はこないかもしれないわね」フェルミが言った。根拠などありはしないが、『星見』の力がそれを告げさせているのなら、おおいに検討に値する予測であった。彼自身の直感も、そのように彼に告げている。


  (あいつ……貴族にならないつもりか)


  やがて、控えの間に女官が現れて、予定の時間であることを告げると、新貴族たちは緊張の面持ちで互いを見交わした。それを追い立てるように、女官の後ろから年かさの役人が今日の予定を述べ立てた。儀式の進行をつかさどる儀典官のようである。
  今日、この儀式にのぞまなかったから貴族になれない、ということはない。ただ不参加は前例がなかったであろうし、おそらく王国の官職を拝受できないというペナルティが与えられるのだろう。貴族であることを認められても、官職を持たなければ社交界で顔がないのも同じである。それに貴族に対する下賜金は、貴族であれば誰もが受け取れる基礎的な給付とは別に、官職そのものに対する給付がある。実入りとしてはむしろこちらのほうがよほど大きい。下層民出身の貧乏人に、無視しうる収入ではなかろう。
  この制度のことをまったく知らないのか、それとも収入面にまったく心配がないくらいの資産持ちなのか。いや、あるいは王国通貨などまったく流通していない田舎では、そもそもお金になど興味を持ち得ないのかもしれない。…後者の想像が、クラウドの求める回答に一番近いような気がした。
  新貴族たちは、儀典官の先導にしたがって歩き出した。






  廟堂に足を踏み入れた後は、もはや王宮慣れした子弟たちとて、周囲に気を配るゆとりはなくなった。ただ大人たちの空けた祭壇への道を、まっすぐに歩くほかはなかった。
  むろん国王の姿はまだない。雅楽隊も楽器を下ろしたまま隣り合う者と談笑している。クラウドは、新貴族の子供たちが神事の贄のように並んだ祭壇の上で、背後を顧みた。その視野に、人類王国中の貴族という貴族たちが人だかりを作っている。


  (これがこの国の選ばれた人間たちなのか)


  参列する貴族の数は、クラウドたちが祭壇にのぼった後も、続々と増えつづけた。巨大な廟堂にさえ、そのすべてが入れるのかというほどの数である。これらすべてが支配者として下層民の上に立ち、王国の富と特権をほしいままにしている者たちなのだ。
  クラウドの視線が、彼らの上を流れて、ひと目で武人と分かる大柄な貴族のうえに止まった。


  (『先の手』のゴセン卿…)


  蛮族とのいくさから帰還したばかりの男の全身から、無為に時間を過ごすことへの苛立ちが薄くかぎろい立ち昇っているのが分かる。それは錯覚などではなく、力ある者にのみ見取ることができるといわれる精気のかぎろいである。その鮮やかな朱の色は、薄暗く混沌としたほかの貴族たちの精気のなかで宝石のように輝いている。
  建前上、王国最大の魔力を持つのは国王とされているが、巷間で当代一とたたえられるのはもっぱらこの将軍である。その強い精気を見ただけで、むべからぬこととクラウドは得心した。
  ゴセン卿は戦地から帰還するなり、国王に奏上して『儀式』のとり行いの許可を得たという。武勇並ぶ者のないゴセン卿をして、単純な武力による対抗をあきらめさせた敵の軍勢の強さは想像に難くない。父が戦地から逃げ帰ってきたときよりも、王国の敗色を生々しく感じる。
  人類王国が興隆した一時代、大陸の百族を従えたという話は、いまではおとぎ話ほどの信憑性しか感じられない。蛮族たちは強い。生身の人間などけっして太刀打ちできないその化け物相手に、先人たちはいったいどうやって優位に立ったのか。


  (最初の民たちは、なかば神話と化したおそるべき大法術を用いていたというけれど、もしも力で彼らに比肩しうる者がいるとすれば、それはあの将軍だけだ)


  王国に十数代の国王が立つあいだ、ながい安逸の時代が続いた。そのあいだに、いくつもの大切な技術が失われていったと警鐘を鳴らす学者は多い。たしかに半ば既得権化した権力にあぐらをかくようになった貴族たちが、力の研鑚を怠り、魔力をおのれの地位を正当化する方便のひとつととらえるようになってから、人類王国の大陸における威勢が衰えをみせたのは事実である。この人類王国凋落を招いたのはたしかにかれらの愚かさによるだろう。先人は鳥のように自由自在に空を飛び、巨大な巌さえたやすく割り砕いたという。いまの貴族など、小石ひとつ持ち上げることができない者たちが大勢いる。
  単純に力としての魔力は、確実に衰退している……それは多くの学者が主張を一致させている。まあその事実は学者に偉そうに言われるまでもなく、だれもが体感として分かっていることだ。人類の超人性は確実に失われつつある。


  (ゴセン卿以外の貴族どもは、無用のクズだ)


  このいくさで、ゴセン卿はひとりで三十匹のドワーフを倒したという。ラッタネラは心配ばかりしているけれど、あのゴセン卿が戦場でおくれをとることなどありえない。ゴセン卿は常に相手の『先の手』を取れるのだから。
  数日後に開かれるであろう『儀式』に選出されるのはたった五人の戦士。むろんそれは貴族のうちから決められるのに違いない。父は『儀式』に選ばれることを忌避しているが、これは名誉あることであり、名門の一族に課せられた義務といってもいい。身分と特権はその超人性への対価として与えられたものであるし、晴れがましい舞台で名をあげることは、宮廷内での一族の席次を引き上げることにもなる。


  (父が義務を果たさないのなら、僕がそれを負うしかない)


  じっと見つめる彼の視線に、ゴセン卿が気付いたように巌のような顔をあげた。その射抜くようなまなざしを受けて、クラウドは姿勢を正した。


  「国王陛下、来臨!」


  廟堂に一声が放たれると、貴族たちはいっせいにそれぞれの身分相当の礼をしめした。祭壇上の新貴族たちは、片膝を地につけ、こうべを垂れた。
  紫色の重々しい礼装に身を包んだ小男が、マントの長い裾を女官に持ち上げさせながら、王家の墓所の大扉の前にある玉座に腰を据えた。男が軽く手を振ると、一斉に動いた貴族たちの衣擦れの音が波のように広がった。


  (このちんちくりんの男が、この国の王…)


  母なる聖霊にもっとも寵愛されるといわれる、矮躯、無毛、痩身、そして虚弱……それらすべてが国王の一身に体現されている。王家は血を尊ぶあまりに、ながきに渡り近親交配を続け、あのような身体特徴を得た。王族は短命で、子が少ない。
  王家の血が持つという恐るべき魔力を実際に見た者がいるのかどうかは分からない。ただ、王国の民には、それに対する畏怖が骨の髄にまで刻まれている。国王の小身を目にしただけで、多くの貴族たちが目視に耐えずに目を伏せた。その傾向は、家を興して間もない新興貴族により強く見られた。
  黄金の鉢をうやうやしく捧げて儀典官が祭壇にのぼってきた。新貴族たちは、それぞれに持ち込んだ家伝の短剣を懐から取り出して、左手の親指に刃を当てた。アウグストの手が震えるのを見て、


  「さっとしちゃえば痛くはないわ」とフェルミがつぶやいた。彼女はクラウドと目が合って少しだけ笑ったが、彼女自身、指を切るのが痛くないとは信じていないようだった。


  長々と王国歴代の国王の名があげられ、そして国教会の祀る五大聖霊にそれぞれの祭司長が聖句を捧げた。五大聖霊とは、魔力を構成するといわれる五元素を神格化したものであり、ガド、マナ、ハラン、フォ、ラアという。


  「血の奉納を」


  クラウドが短剣を走らせると、ほかの新貴族たちも追随して指に傷をつけた。黄金の鉢のなかに、暗紅色の血がしたたった。
  この血は伝来の黒い薬液と混ぜ合わせ、小ビンに封じられる。血は魔力のみなもととされ、忠誠の質として王家の廟に納められるのだ。
  儀典官が聖別した水ですすいだ杖をひとりひとりにあてがい、「母なる聖霊の御名において、汝に聖名を与える」と言った。新貴族たちは、「拝授いたします」と応えた。
  王家から与えられる新たな名前を聖名といい、これを本来の名の頭につけることによって、第一身分者たちは合わせて三つの名を持つこととなる。
  クラウドは「レグル」の名を受けた。これで名はレグル・クラウド・トレゴレンとなる。もっとも、貴族の聖名を口にしていいのは国王だけであるから、普段の呼ばれ方は変わらない。
  アウグストは「オウルト」、フェルミは「セテ」の聖名を与えられた。三人について歩いてきた下層民出の少年は、「ユーマ」の名をいただいた。
  儀典官は、そこにいるはずのもうひとりの新貴族の姿を探して、戸惑ったように手元の皮紙に目を落とした。皮紙には、今年の新貴族の聖名がつづられているのだろう。


  「あの者はどうした」


  玉座の国王が言葉を発した。異例のことに、廟堂全体がざわめいた。
  国王にとって、今年貴族になったばかりのような子供など、あまりにもどうでもよい取るに足らない存在である。ゆえにひとりひとりの名前はおろか、その年の合格者が何人いたかすら気にもとめられないものである。
  それほどに、あの黒髪の少年の登場は、印象に強いものだったのだ。


  「なぜここにおらぬ」


  叱責に近い強い言葉が発されて、側近たちは首をすくめた。祭壇の上の新貴族たちも、居心地悪げに身体を揺らした。
  クラウドはこぶしを白くなるほど強く握りしめて、玉座の国王を仰ぎ見た。
  国王の関心があのフォー・チュアンに向けられる理由は分かる。卓越した超人性はさながら宝石の輝きのように珍重され、めでられる。魔力は人類の優越性の証明であり、人類にその力を与えたという母なる聖霊の、神性の顕現なのだ。
  クラウドが落としたまなざしの先には、玉座の脇にたたずむ父オットーの姿があった。
  オットーの目が、廟堂の暗がりのなかで冷ややかに笑っているように見えた。殿試において、クラウドは自己の超人性を証明してみせた。ここ何年かの合格者たちの成績と比べてもなんら遜色のない……いや、例年の最優秀合格者と比べても明らかに上回る力を示し得たと自信はある。であるのに、現実に国王や多くの貴族たちが気にかけ目で追うのは、おのれではなく別の人間の姿だった。
  この《百の目》トレゴレンの直流たるおのれではなく、名も知れぬ辺地の土くれから生まれたようないやしい子供が、国王陛下の関心を一身に集めている。


  「フォー・チュアン…」


  もはや祭壇の上の新貴族のことなどそっちのけで、儀典官が指示を求めて右往左往し、正装の役人や儀杖兵が走り回る。
  あんな田舎者などほうっておけばいいのだ。あいつは民草なら誰もが手に入れたがっている貴族の名誉と権利に後ろ足で砂をかけ、それがいかにだいそれた行いであるか露ほどにも気付かない、どうしようもない未開人なのだ。たとえどんなにすごい能力を示したところで、それを使う知性が伴わなければ、それは危険なだけの凶器にすぎない…。
  繰言を、とクラウドはおのれを嫌悪した。
  まだしも、あいつがこの場に出席していて、正当な注目を浴びていたほうがどれだけかましだった。これではまるでさらし者だ。
  同じような屈辱を、アウグストとフェルミも感じているようだった。あいつと同じ下層民出の役立たずだけが、彼らと精神的な一体感を共有しなかった。


  「どうして、あの人はこなかったんだろうね。あんなにすごい力を持っていたのに…」船問屋の息子は、三歳の子供のように素直に感心している。


  クラウドは、貴族の人だかりのなかにあったゴセン卿の姿を探した。あの方なら、自分の能力を正当に評価してくれるに違いない。
  しかし彼の目は、そこにあるべきゴセン卿の姿を見つけることができなかった。あの雄偉な上背が、人込みにまぎれてしまうはずはない。ゴセン卿は、式典の途中で退席してしまったのだ。
  無意識に泳いだクラウドの視線が、父オットーのそれとぶつかった。オットーの粘質なまなざしは、動揺する彼に冷や水を浴びせた。


  (しょせん、おまえに対する評価などそんなものだ)


  その目は、晴れの席にあるおのれの息子を見る父親のそれではない、新参者を値踏みする宮廷貴族のそれであった。貴族たる超人性など人並みにも持っていない愚物が、ここでははるか雲の上の住人である。世の不条理、正統を歪める俗物の象徴が、人身のきわみといえる元老院上卿の地位にある。


  「クラウド…」


  フェルミの気遣わしげな声に、クラウドは我に返った。
  いずれこの自分が、王国宮廷からその身分にあるまじき無能者たちを一掃する。そのためには、おのれがまず父の立つ高みへと登りつめねばならない。今日、その最初の一歩を刻んだのだ。
  クラウドは玉座を仰ぎ見た。
  手を伸ばせば届きそうなほどわけもない距離だった。大きな成功さえ掴めば、ひとまたぎにできる距離だとクラウドは思った。






              *   *   *






  チュアンは弓に矢をつがえると、獲物に向かってこともなげに放った。
  ひと目で手製とわかるあまり格好のよくない木の弓は、マルカたちにその性能を悲観視されたが、放たれた矢はほとんど吸い込まれるように標的の獲物に突き立った。犬ぐらいの大きさの野豚である。


  「これでじゅうぶんだよね?」


  そう言われて、マルカは素直にうなずいた。たしかにスリンに食べさせるだけなら、十分すぎるほどの獲物である。たぶん病人の食べられる量などたかが知れていたから、仲間たちにだってけっこうなおこぼれがまわるだろう。
  弓を背の荷袋に収め、獲物の豚を手早く縄で縛る少年の小さな背中を、マルカはじっと注視した。こと狩りに関しては、たしかに専門家のようである。ただの痩せっぽちだと思っていたのに、ずいぶんと頼りがいのある背中だった。
  縛った縄に太い木の枝を通して、ふたり掛かりで獲物を担ぎ上げる。ずっしりとした重さに、浮浪児たちは命の『重さ』を実感した。あのまま蛮人たちに引き渡され、殺されていたなら、こうして担がれていたのは彼ら自身であったかもしれないのだ。


  「ねえ」


  先を歩くチュアンの背中に追いつきながら、マルカは口を開いた。
  黒髪の少年の横顔は、いまではずっと大人びて見える。どこがどう変わったなどとはっきりとはいえないのだが、印象など見る側の気持ち次第でどうとでも変わってしまうものなのだろう。


  「どうしてこんなところにいたの? もしかして、あたしたちのあとをつけてきたの?」


  たしかに少年の生活の場は森の中であっただろうが、この森は『ウルガ』などと呼ばれてはいない。たまたま出会ったなどとはとても思われないし、彼が自分たちのあとををつけてきていたのならば、その理由が分からない。
  そのとき、がさがさと草が鳴った。マルカたちはとたんに青くなって、チュアンのまわりに身を寄せた。


  「あいつら、まだついてきてやがる。監視されてんのかなぁ、やっぱ」


  森のなかを、蛮人たちがつかず離れずついてきている。まるでいつ襲おうかと機会をうかがうように、人間の子供たちを囲んでけしてその包囲の輪から逃がさなかった。


  「チュアン」


  いま頼りにできるのは、この正体の知れない少年だけである。蛮人たちが襲い掛かってこないのは、ひとえにこの少年の存在によるものなのは間違いなかった。
  途中、チュアンは一本のケイヤーの根方のうろから、草にくるんで隠した土豚を取り出した。先に自分用にしとめておいたのだろう。


  「なんだ、あんたも豚をとりにきたのか」


  おんなじ布令破りの密猟なのかと、気安くリンがいうと、


  「うん」


  と、チュアンはあっさり答えた。
  テテルとリンはそれで屈託なく笑いあったが、ひとり後ろを歩くマルカはむずかしい顔をして、彼女たちの命を救った黒髪の少年を見据えていた。


  (こいつは何者なのかしら)


  その疑問は、もはや好奇心などというレベルを超えて、飢えに似た激しい欲求となってマルカを突き上げていた。
  チュアンは、彼女たちと同じ今年で十三歳になる少年である。痩せっぽちだし、格好も田舎くさいし、なにより有力な係累を持つような門閥貴族の出ではない。絵に描いたような下層民である。
  だがそんな見かけとは裏腹に、いま現在この少年は、人類王国でもっとも新興の『貴族』のひとりである。やがて国王から位が与えられ、俸禄が下賜され始めれば、彼女には想像もつかないような贅沢が許される身分になる。
  自分とこの少年の運命を分けたあの試験が、どこまでもふたりのあいだの落差を大きくしていく。この国ではよくある話であったけれど、まったく残酷な仕打ちといわねばならなかった。


  (だけど、ほかの誰が貴族になるより、こいつが貴族になるほうがずっと納得できる)


  人類王国では、『超人』であることがもっとも尊ばれる。この少年は、まるで昔話に出てくる『最初の民』のように、母なる聖霊の寵愛を一身に受けたような魔力を持っている。もしかしたら、人類王国でこの少年に太刀打ちできる王族や貴族はひとりもいないのではないだろうか。


  (こいつは、あの化け物に勝ったんだから)


  あの光景は、鮮烈な印象をマルカの脳裏に刻み付けた。
  生死を分けたひとつの出来事が印象的でないなどおよそありえないことだが、あのときマルカは、まるで芝居興行でも観ているような錯覚を覚えたものだった。まるで現実感のない、ふわふわした夢を見ているような気分だった。


  (人間が勝てる相手ではない)


  彼女のなかには、確信があった。翼を広げた竜人は、まるでおとぎ話のなかに出てくる煉獄の悪魔のようだった。そのトカゲめいた外見も異様であったが、その全身から発するおそるべきなにかが、人とこの生き物を明瞭に分け隔てていた。
  それを大陸の諸族は『威』という言葉で呼んだが、人類にはそれを表現する的確な言葉がなかった。ただ、何かに打たれたように、身をすくめておびえるばかりであった。


  「おまえは、人間か」


  竜人の問いに、チュアンは首を縦に振った。


  「わが竜の民は『伯族』である。ふさわしい礼を示すがいい」


  そう、言われるままに、チュアンは地に伏して叩頭した。母なる聖霊に祈りをささげる教母のように、彼のやりようは流れるようで、まったく竜人にも不満のないものもだったようだ。


  「おまえの『礼』を受け入れよう。人族にも、礼を知る者がいたか」


  どのあたりがその作法にかなっていたのだろう? 土下座したことか、それとも二回続けて額を土にこすりつけたことか。立ち上がるときに顔を上げず、相手の許しが出るまでうつむいたままでいたことか。
  傍観していたマルカは、その行為を卑屈であるとは思わなかった。相手の竜人が圧倒的な『威』をはなっていたのも理由のひとつであったが、チュアンの示した礼容が、一糸の乱れもないすっきりとしたものであったからだろう。


  「彼女たちの罪をお見逃しください」


  チュアンの請願に、竜人は


  「否」


  と答えた。


  「われは『儀式』の立会人として招かれた判官である。そのわれが礼のならいを曲げるわけにはいかぬ」


  ふたりのあいだで、しばらくよく分からないやり取りが交わされて、そしてあの闘いが始まった。最初それはあまりに儀式めいていて、殴り合いが始まったと気付くまで多少の時間が必要だった。
  チュアンがそのとき何をしたのか、マルカにはしかと見届けることができなかった。
  チュアンと竜人のにらみ合いは、数呼吸のあいだほど続いただろうか。その間、両者のあいだで目に見えぬ不可視のやり取りがかわされた気配があった。それが何であったのか、くやしいことに彼女にはまったく分からなかった。
  ふいに、竜人が翼を広げた。飛び上がろうとしたに違いない。
  が、竜人の身体は低空できりきり舞して、そのまま地面に転がった。倒れ伏した竜人は、さっきよりもずっと小さく見えた。


  「このように力に訴えて、上族に抗うことは本意ではありません。ただ、この場でお目をふさいでいただければ…」
  「おまえは『人間』なのか」


  さほどダメージを受けたふうもなく、竜人は鞭のようにしなやかに立ち上がった。相変わらず表情のない顔であったが、そこに驚愕の色があることをマルカは見て取った。
  あの竜人が、驚いている。


  「おまえは『人間』なのか」


  その証拠に、馬鹿のように同じ言葉を繰り返しつぶやいた。
  対するチュアンは、何事もないかのように立っている。いや、少し呼吸が荒い。


  「見てのとおり、わたしは『人間』です」
  「伯族のわれの決めたことに異を唱えるおまえは、その資格を有する者か」


  竜人は昂然と胸を張った。
  その全身から放たれる倣岸な気に当てられたのか、マルカは怯んだように地の草をつかんだ。この生き物は人間よりもずっと偉い。厳しい身分制のなかで生きているマルカにとって、おのれのうえに上位者の存在を認めることに戸惑いはない。生き物のあいだには、生来の序列がある。馬や豚が人間に隷従するように、人間もまた何者かに隷従しているのは道理であろう。
  この竜人の放つ威の力に、膝を屈せずにいられる人間がどれだけいるだろう。現に、マルカはすぐに圧伏した。


  (あいつはバカだ)


  竜人に比べて、チュアンの背中がなんと小さく見えたことか。力自慢の大道芸人に子供が挑みかかるようなものだ。結果はもう見えている。
  だがマルカの感想とは裏腹に、少年はますます言葉の力を強めた。


  「『請願』が退けられたうえは、わたしにはあなた様を超克するしかすべはなくなりました。『下克の儀』をお受けいただけますか」


  形式的なしゃべり方が、大人ぶっているとは感じられなかった。自分の知らないなにか秘密めいた決まりごとを、同じ子供であるチュアンが知っていることに、マルカは驚くとともに嫉妬も感じた。
  都の外では、異族とのやりとりをこんな子供までが知っているのか。


  「おまえの礼は、正統なものだ。受けねばなるまい」


  竜人は、おおきく翼を羽ばたかせた。巻き起こる風が梢をがさがさと揺らし、地の草を打った。浮浪児たちは目を見張った。
  威圧するように翼をいっぱいに広げ、雄叫びをあげた竜人に向かって、チュアンは手に取った弓矢で狙いを定めた。とても立派とはいえない、おそらく彼自身の手製になるだろうささやかな弓矢は、まるでこどもがおもちゃの矢を扱うように、こともなげに放たれた。
  矢は常人のマルカたちにさえ目で追える程度のはやさで、ゆるく山を描くように飛んだ。竜人は小ばかにしたように、片側の翼をひと煽ぎした。それだけでも防備には充分であっただろう。
  だがその矢は、どこかおかしかった。
  小さな木なら幹ごと揺さぶるであろう竜人の起こした風のなかに、まるで糸で引き寄せられるように動揺もなく吸い込まれていったのだ。その異様さにいち早く気付いたのは争う当事者たる竜人だった。
  目を見開いた竜人は、紙一重で身体をひねった。おそるべき俊敏さであったが、それでもその矢が的をはずすことはなかった。矢は竜人の翼のもっともやわらかそうな皮膜を貫いて、背後の地面に突き刺さった。
  おのれの身体に及ぼされた被害をさっとながし見て、竜人は少年に相対した。すでにチュアンは次の矢をつがえている。チュアンは一度竜人の心臓を射抜くそぶりをしてから、なにを思ったか矢の狙いをはずした。


  「この矢からはなんびとも逃れることはできません。次の矢には、毒がぬってあります。死にはしませんが、少しでも体に触れればたとえそれがエニセ河のオオトカゲだろうと、しばらく身動きできなくなります」
  「この強い力……人祖か」


  竜人は、マルカの知らない言葉をはいた。
  チュアンの気負いのない警告に、おそらく誇張はなかったであろう。警告を受け入れねば、攻撃はただちに実行されるであろう。
  チュアンは再び、矢を竜人に向けた。


  「人族の寿命はそれほど長くはないはず……わが竜族でさえ、あれから王が二代もかわったというのに……いや、ありえぬ」


  竜人は、警告になど屈さなかった。そうあることを予想していたマルカは、思わず悲鳴をあげた。どれだけ不思議な力を秘めた矢だろうと、あんなお粗末な造りでは、竜人のいかにも硬そうな外皮を貫けるはずがない。それにどんな毒を塗ってあろうが、あの竜人なら毒が回る前に簡単に相手を制圧できるだろう。


  「チュアン!」


  竜人が羽ばたきざま飛ぶように突進するのと、チュアンが矢を放ったのがほぼ同時であった。竜人は飛来した矢を横合いから打ち払い、少年へと突っ込んだ。
  その体当たりがどの程度の威力を持っているのかは測りがたかったが、少なくとも人間の子供相手なら、その全身の骨を粉々に打ち砕くだけの力はあっただろう。げんに、ぶつかったときの鈍い音に、マルカは半分目をつむってしまった。


  「…グッ」


  聞こえたのは、竜人のつぶれたような唸りだった。
  マルカがそこに見たものは、最前と変わらぬように立ち尽くす少年と、その少年に攻撃しようとしてそのままそこに凍りついたように動かない竜人の姿だった。竜人の表情は相変わらず分かりにくかったが、見えない壁に額をこすりつけるようにして身をひねるそのようすが、苦悶のそれであることをマルカは見て取った。
  見えない壁……それがなんであるかは、うすうすと分かった。チュアンは、竜人を念の力で阻んでいるのだ。理屈では理解できたが、それが可能であるなどとはとても信じられなかった。人ひとりの力など、たかだか知れたものだ。聖霊さまは、取るに足らないひとりに人間に、過分な力などお与えにならない。
  チュアンが一歩竜人に歩みより、顔を近づけた。そしてなにごとかささやきかけていたと見えた刹那、竜人の目が見開かれた。
  チュアンはまた一歩後ろへと下がり、手にしていた弓矢を背嚢に納めた。竜人はしばらくその場であがくように身もだえし、翼をばたつかせていたが、やがて膝をつき、脱力したように坐り込んだ。


  「『下克』は成りました。われは汝を超越するものであることを証明しました。汝はわれに対し、ふさわしい礼を示さなければなりません」


  何かに打たれたように、竜人はびくりと背筋を伸ばした。
  にわかには受け入れかねるようにしばし少年のほうを見やって、つぎにマルカたちのほうを見た。虫けらのように弱々しい人間の、それも年端も行かぬ子供に屈服したおのれの現実がなかなか受け入れられないようだった。
  だが、ふたたびチュアンと眼差しをかわしたとき、竜人はさきほど少年がそうしたのと同じように、額を地に擦り付けた。竜人はそうして身体を伏せたまま、しばらくそのままでいた。


  「この子たちにもはや構いつけぬように。森での猟は、上位者たるこのわたしが許可しました」


  マルカたちは、フォー・チュアンによってその罪を許された。竜人は「おおせのままに」と言って、その場を退いた。そしていま、マルカたちは帰途についていた。


  「あんたはいったい、なにものなの?」


  その疑問は、ただ小さな呟きになった。
 








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