『人類王国物語 ゴンドワナ史』





  『序章』












  風が、鉄さびたにおいを運んでいた。
  見渡すかぎりの麦畑。ただし、焼き払われて、そのうえひどくぬかるんでいる。燃え広がった火を消し止めるために、誰かが水門を破壊したのだろうか。
  いや、このぬかるみは水でできたものではない。こんな生臭いにおいのする水などあるわけがない。


  (よくもここまで殺したものだ)


  消し炭と燃え残った麦の根、そして見渡すかぎり累々と横たわる人間の死体。
  首を断たれたもの、はらわたを撒き散らしたもの、薪を割るように肩口から二つにされたもの、凄惨だが数が多すぎて滑稽にしか見えない人の死の展覧会であった。死体から流れ出た大量の血や人脂が、この広大な麦畑をぬかるませているのだった。
  そこは紛れもなく、昨日今日行われたばかりのいくさ場だった。いや、それはあまりに一方的過ぎて戦争ですらなかったかもしれない。殺されているのは人類王国の兵士ばかりなのだから。


  「…すけてくれ」


  死肉をついばむ黒鳥の羽ばたきと風の音しかしないいくさ場に、突然人の声が起こった。ほとんど風のさざめきにしか聞こえぬか細い声であったが、チュアンははっきりとその声の主の居場所を把握して振り返った。土くれのうえに突っ伏すように這いつくばっていた兵士が、最後の力を振り絞るように震える頭を持ち上げていた。


  「待って……助けて…」
  「都に着くまで生きている自信あるのなら、助ける」


  立ち止まったチュアンは、兵士に向かって言った。
  身の丈は150センチぐらい、まだ12,3ほどの幼さの残る少年である。兵士はむろん少年よりもずっと大きな体をして、本来なら少年が敬意を払わねばならぬほどの年も取っている。血まみれの五体を引きずって、いかにも息絶え絶えだった。


  「自信は…ある。死にはしない。頼む」
  「分かった。少し待ってて」


  チュアンはあたりを見回して、遺棄された馬車を見つけると、板を要領よく引き剥がした。それを持って戻ると、兵士の体を移動させ、手早く板にくくりつける。
  体重で二倍以上もありそうな相手を自分の手で引いて歩こうというのだろうか。見るからに無理そうであるのだが、少年はあつらえた縄の取っ手を持ち上げると、ゆっくりとたしかに歩き始めた。


  「すまん」


  兵士は運ばれながら、涙を流した。すでにこのあたりは人類王国の版図ではなくなっている。もはや安全とは言いがたい土地でこのような大荷物を抱えるのはおそろしく危険なことであり、わが身かわいさに見てみぬふりを決め込んでしまってもけしておかしくはなかった。しかしこの少年はいやな顔ひとつせず、当然のように兵士の命を路傍から拾い上げた。


  「人間だ」
  「人間の生き残りがくる」


  子供のようなかん高い声がそこここで起こって、ギンイロイタチのように全身白い毛で覆われた生き物が顔を出した。焼ける前の麦畑ならば頭ひとつ上に出るのがやったとだろう小人族の姿だった。五、六人のホビットたちはいっせいに鋭い歯を剥き出しにして威嚇したが、チュアンは気にせず歩いた。


  「…くそったれどもめ」


  後ろで兵士が吐き捨てて、すぐに苦しそうにうめき声をもらした。
  ホビット族はこの近隣の森や沼地に住む猿人だった。いくさが終わるのを見計らって、遺棄された死体から武具や布地を引き剥がしにやってきたのだろう。死肉もあさっているという噂もあるが、彼らは基本的に草食である。


  「置いていけ」
  「ホビットから盗んだものを置いていけ」


  森から木を切り出し、木の実を採っていく人間たちを、ホビットたちは盗人と決め付けている。人間の豊かな道具類も、盗まれた森の木から作られたものだと彼らは信じているのだ。


  「どいておくれ」


  立ちふさがる彼らの前で立ち止まって、チュアンは静かに言った。敵意がないことを示すように、兵士をのせた板を下ろすと、両手をさし上げて何も持っていないと身振りしてみせる。だが猜疑心の強いホビットたちは、聞く耳も持たぬというようにチュアンを取り囲もうとした。


  「盗んだもの置いていけ」


  いくら小さいとはいえ、鋭い牙と爪を持つホビット族六人相手に、人間の子供が無事逃げおおせる可能性はほとんどあるまい。この状況を前にして、チュアンは眉をわずかにひそめたのみである。


  「そこを通りたい。物がほしいのなら、まわりにいくらでもある。ぼくとこの人が持っているものは生活していくのに必要なものだ。おまえたちは死人から物をもらえ」
  「人間持ってるもの、全部ホビットのもの。置いていけ。盗んだもの置いていかないと、おまえたち殺す」


  問答無用で襲うつもりだと見て取ったチュアンは、背に負っていた矢筒から矢を一本抜き取ると、愛用のものらしい小ぶりな弓を引き絞ってホビットたちに向けた。
  向けられた矢にホビットたちは驚いたように立ち止まり、口々に言葉にもならぬ非難の声をあげた。矢一本のことで何ができるのかとあざけっているようであった。
  たしかにたった一本の矢で、しかもこの至近距離でどれほどのことができるであろう。矢は向けられた方向にしか飛ばない。狙いを定めるにも時間がかかる。さらにその矢をつがえているのは痩せっぽちの子供である。ホビットの身軽さを持っていれば、放たれた矢をよけることなど造作もない。そのあとで彼らは十分に逆襲できるのだ。
  ひょいと、なんの力みもなくチュアンは矢を放った。それは一人のホビットを狙ったものであったが、そのホビットは彼の動きを見逃さず機敏に身をそらした。あっさりと矢をかわし、ホビットたちが色めきたって襲撃に移ろうとしたそのとき、なんの前触れもなく事態は一変した。
  チュアンの放った矢は、たった一本であった。
  だがその狙いをはずしたはずの矢がありうべからざる方向から一匹目のホビットの髪をかすめ、続けざまに二匹目三匹目の鼻先をかすめるようにして、さっくりとぬかるんだ地面に突き立ったのだ。
  出鼻をくじかれたように、ホビットたちは動けなくなった。無理もあるまい、彼らは一瞬、矢が別方向から射掛けられたものと感じて、囲まれているのは自分たちのほうかと疑ったのである。だが彼らの本能は、この場にほかの人間などいないことを察している。気味の悪い違和感に、ホビットたちはまじまじと少年のほうを見た。


  「ぼくたちを狩るというのなら、おまえたちも狩られていいということだね」


  もう一本取り出した矢の鏃を、腰の小壺に手早く浸してから、またあの何気ない動作で弓を引く。相変わらず表情ひとつ変わらない。


  「今度は毒矢だ。かすっただけでも死ぬよ。まだぼくたちを殺そうと思っているんなら、前に出ておいで。おまえたち全員にかかられたら、さすがにぼくたちも無事にはすまなそうだけど、死ぬまでにおまえたちのなかの四人ぐらいは道連れにできる」
  「おまえ、魔法使いか」
  「ぼくは狩人だ」
  「いま『魔法』使った。それでホビット、殺そうとした」
  「魔法なんて知らない。だけど、ぼくの矢から逃れられる獲物はめったにいない。ぼくの矢はどこまでも獲物を追っていく。この毒矢は、おまえたちの誰かに刺さるまで飛んでいく」
  「魔法使いだ。ホビットたち、殺される!」


  ホビットたちは手に持っていた戦利品を放り出して、いっせいに逃げ出した。猿人たちは、まさにましらのごとく駆け散った。草を掻き分ける騒々しい音とともに、彼らの後ろ姿は焼け残った麦畑の中に見えなくなる。
  チュアンは彼らの気配が遠のくのを見守ってから、弓矢を片付け、また兵士を乗せた戸板を引き始めた。


  「『法術』を使えるのか?」


  兵士の驚きともつかぬつぶやきに、チュアンは「そうだ」と応えた。


  「殿試は受けたのか? 今年の試験はもうすぐ始まる。…そうか、そいつを受けに都へ行くのか」


  それにもチュアンは、「そうだ」と応えた。










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