『陶都物語』





  第2章 『驚愕のド田舎』












  乳児期の彼は、三月と経たずに禅僧の悟りの境地へと至った。
  目覚めてからこのかた、グラスハートが粉々に砕け散りそうな羞恥プレイを繰り返すうちに、若干0歳(生後3ヶ月)で不動の心を手に入れたらしい。


  「ソウちゃんが変な顔してるから、たぶんお漏らしやわ」


  泣き喚かない赤ん坊。
  しかしその眉間には、苦渋に満ちた心中が梅干のような皺になって現れている。大人ならば難しい顔してるとでも言われるのだろうが、赤ん坊がそれをやるとなぜか笑いを誘うらしい。
  脱糞するたびに心のラージヒルを飛翔している赤ん坊の魂は、諦めと言う名の翼を広げて軽々とK点越えをした。
  床にころがされて、ぐるぐる巻きの布オムツがほどかれる。足首を持って掴み上げられ、お尻を拭かれている間、赤ん坊は滝行の苦行僧のように神妙な面持ちで沈黙している。
  実際に彼は、頭の中で般若心経を唱えていたりする。
  身体は赤ん坊、でも心はおっさんな彼の自己防衛努力である。ちなみに前世では、親子ともに宗教には縁遠かったりする。


  「おはるや、つるさんが来てくれたよ」


  家の外から、爺さんの声。
  そうして入り口で物音がしたかと思うと、丸っこい人影が家のなかに顔をのぞかせた。がっしりとした体つきでいてふくよかさも併せ持つ、お隣の奥さん、おつるさんである。


  「そろそろまんまの時間かと思ってさあ。うちの彦もいま飲んだばっかりで乳も出てるし…」
  「いまオムツ替えるから! 少し待っとって」
  「あはは、ソウちゃんまたむつかしい顔してるやんか。こんな小さいのに、大名行列のお侍さまみたい」


  日々日課のオムツ替えの動作によどみはなく、母の手でひっくり返されるあいだにオムツ装着が完了する。
  慣れたように断りもなく入ってきたオツルさんが、リフレッシュして爽快感を満喫している彼を胸元へと抱き上げる。


  「そんじゃ、たーんと吸いな」
  「ソウちゃん、おなか一杯吸っときゃーよ」


  汚染済みのオムツを丸めて、素早く戸外へと出て行く母。なんでも時間が経つとシミが取れないらしく、毎回その場で手洗いにいくのだ。母の後姿に感謝の念を送ると、あらためて眼前にあてがわれた巨大なブツに神経を集中する。
  7人の子供をたくましく育ててきたおつるさんのおっぱいは、その造形と量感で彼を圧倒した。


  「ほら、いい子に飲みな〜」


  さほどおなかは減っていない。
  だがこのミニチュアボディは、燃料タンクが小さいくせに燃費が非常に悪いときている。栄養は貰えるうちに貰うべきなのだが、オツルさんの巨大なおっぱいに圧倒されて彼は硬直してしまう。
  食事拒否はむろん許されない。
  そこは子供扱いになれた熟達者のこと。オツルさんは問答無用で彼の口にあてがってきた。そうなると呼吸は鼻でしかできない。
  そうして生命の神秘が発動する。彼の身体は、なにを指示するまでもなく乳を吸い出した。


  「またむつかしい顔しとる。あっはっはっ、おかしい顔やな〜」


  要らない言葉は耳が勝手にキャンセルする。
  彼は神妙な面持ちで目を閉じて、心のなかで般若心経を唱え始めた。生きていくためには、この苦行は乗り越えねばならないのだ。






  草太の家族構成は、彼の母とその両親、全員で4人である。
  父はいない。近所の地下侍(半士半農)の三男坊に夜這いされて身ごもったのだという。普通な顔してしゃべられるものだから、齢0歳にして自分が私生児だと知ってしまうはめになった。
  子供を産ましたあげくにほったらかしってどうよと赤ん坊は義憤に駆られたが、父親の実家が何くれと援助はしてくれるみたいで、母たちはそれで満足しているらしい。


  「勝正様のお血をいただいたんやし、この子はれっきとした林のお殿様の血筋っちゅうことやろ。大切に育てなあかんて」
  「普賢下の林様も、月に十文も与えてくれとるし、大きなったら跡継ぎなんてこともあらへんかな…」


  うちの爺さんも婆さんも、本音と建前の使い方を知らない田舎者だから、本音をそのまま口にする。おかげで自分の生い立ちや周辺状況なんかもはいはいもできないうちから知り得てしまったわけで。
  うちは貧しいながらも本百姓(土地持ちの農家)で、田んぼを3反持っているらしい。『反』とは前世でもよく見かけた300坪ほどの細長い田んぼのことで、1石(大人ひとりが1年で食べる量の米)のコメが採れる面積で1反と呼ぶ。
  つまりは3石の米を生産する農家というわけである。大人3人分だから、暮らしも楽ショーっぽいのだが、実際はどこの農家も同じだけれど半端なく貧しいようだ。
  なぜなら、領民には必ず年貢という税金がかけられるからだ。
  税率の詳しいところは分からないが、おそらく一般的と言われている6公4民程度だろう。高校の自由研究で得ていた生半可の豆知識を動員する。
  つまり3反の米の60%は領主様がかっぱらっていく。うちに残るのは3反の40%、1.2反分の米である。
  前世で近所の農家から米を買ってたから、1反あたりの実際の収量とかもだいたい聞いている。正確には1反=1石ではなく、時代とともに収穫量は上がって、平成の時代には平均8俵(480キロ)ぐらいだった。
  江戸時代の収穫効率はその半分ぐらいだったとして、4俵×1.2で合計4.8俵。
  1俵60キロだから300キロ弱の米が手元に残ることになる。
  300キロ! 
  それなら超裕福じゃん! …とかホクホク顔になっていた時期がありました。
  それだけあれば充分だと思うのはおそらく現代の感覚ゆえだろう。米以外の主食はないから一日の消費量はそもそも半端ではないし、野菜や調味料、衣服やその他消費財はこの米を売った代金で賄なわねばならない。
  食材はまだしも、この時代の布とか恐ろしいまでの高級品である。塩や味噌も高いし、爺が時々買いにやらせるドブロクも家計を直撃した。
  まだ乳で腹を満たす彼には実感できない貧しさが、家のなかには満ちていた。






  新事実が判明しました。
  うちの領主様は、林様と言うらしい。
  まだここがどこなのか場所を特定しきれていないので、『林様』が大名なのか旗本なのかまるで分からないが、一帯がド田舎であることは間違いない。
  母親に抱っこされながら家の外に出た彼は、いつも興味深々で辺りの風景を眺めた。
  目下のところ、彼が気にしているのは家の南側にある小高い山の稜線に見覚えがあったこと。でえだらぼっちが横になったような左右に長い山の形が、しきりに何かを語りかけてくる気がしてならない。


  (あれって……高社山※なんじゃ)










※注釈……【高社山】(たかやしろやま)標高416.6m。多治見盆地の南側のついたてとなる山。








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