『陶都物語』





  第5章 『林貞正』












  普賢下の林様。
  大原郷ではそれで通る。江戸の初期に創建された普賢寺(曹洞宗らしい)の門前にそのお屋敷はあった。春には美しく咲き誇る枝垂れ桜が大沢川(大原川の支流)の小さな川面に映えてとてもきれいな場所らしい。
  大原郷と根本郷、それに可児のほうにも所領がある本家の殿様、江戸の林家(江吉良林家というらしい)は2000石の大身の旗本で、普賢下の林家は二代当主林勝正公(林丹波守)の後裔だという。
  普賢下の林家は、大原郷の庄屋のような存在である。殿様の縁戚というだけでずいぶんと偉い人のような気もするが、実際は主家に仕えるわけでもなく自分たちでも田畑を耕し、帯刀した農家のような感じである。
  現当主林太郎左衛門貞正さま。それがどうやら草太の祖父に当たる人らしい。
  草太の家から普賢寺の見えるあたりまで来るのにだいたい10町(1キロほど)の距離がある。常識的に三歳児の行動範囲のおよそ外といえるが、彼はむろんその常識の範疇外にいた。すでに普賢寺も見物済みであるし、その寺の裏山にあるおのれの祖先という林丹波守の墓も参ったことがある。もっとも、林家の敷居だけは私生児的な立場から高くて跨ぐことはなかったが。


  「三郎さま。お出かけになったんじゃ…」


  肉付きはそれほどよくないのに狸に似ている小者が竹箒を手に駆け寄ってくる。ゲンという名らしい。たまにうちに銅銭を届けに来ることがあるやつだ。


  「気が変わったんだ。それよりも親父はおるか」
  「旦那様は水路の検分から帰ってこられて、いま勝手口の辺りで白湯を飲まれておられましたが」
  「そうか」


  我が家であるから、三郎は何の遠慮もなく鶏の放たれた庭を横切り、裏手に向かう。林家の家は大原郷で一番大きな家である。一辺だけで伊兵衛の家を5個も足したぐらいに長い。


  (おお、こりゃ豪邸だ)


  掘っ立て小屋の住人としては、その大きさに興味津々である。立派な瓦を乗せているだけで、すでにほかの村人の家とは一線を画している。高いうだつを乗せた母屋と離れ。それらを廊下で結んだ屋敷は前世の記憶的にも充分に豪邸のカテゴリに含まれるだろう。建て坪100以上あるな、たぶん。


  「父上!」


  ちょうどそのとき勝手口から出てきた人物に、三郎が声をかけた。
  こちらを振り向いたその顔は、少し既視感がある。なに、三郎をそのまま加齢させたらそんな顔なんだろうか、という顔だ。
  よく陽に焼けた肌色は、偉ぶらずに自ら田畑に出ていたための日焼けだろう。何事にも早婚なこの時代、孫ができたばかりの年齢ならばまだ中年といっていい40半ばのはずだが、栄養状態が悪いのか生活環境が悪いのか、実年齢以上に老けていることが多い。
  普賢下林家の当主、林貞正様は、ロマンスグレイをちょんまげに結った、渋いナイスミドルだった。神社でよく見る作務衣のような格好の貞正は、息子の肩に乗せられた3歳児を見つけて、いぶかしむように目を細めてから袖をからげていた紐をほどいた。


  「三郎、その子が例の子か」


  例の子、とは引っ掛かる言いようである。
  なにか問題を起こしていたならまだしも、3歳児に大人が顔をしかめるような大失敗をしようとしても困難である。だいいちこの老人とは面識などなかったはずだが…。


  「普賢寺の和尚が村の鬼っ子といっとったが……その面構えを見て、まんざら和尚の冗談ではないような気がしてきたな。…三郎、書斎で待っとれ」


  ええーっ!
  いきなり職員室呼び出しかよ。
  なにをどんなふうに叱られるのかいろいろなシミュレーションが頭の中を駆け巡り出す。寺の和尚といえば、たしかにお供えものの餅とか失敬したことはあるし、池に自生(たぶん)していた蓮をおすそ分けしてもらったこともないわけではない。蓮の根っこはレンコンだ。かゆに刻んで出されたが大変硬くてうまくなかったが。
  ああ、それとも人目をしのんで林家の門扉に「大原の種馬参上」と落書きしたことがばれていたか。隅っこのばれにくいとこを選んだんだがなぁ。
  想像をめぐらせていると、案外怒られそうな事が出てくる。まずいなあと思いつつも、その程度の悪さなら村の子供なら大半はやってるだろうし、いたいけな3歳児のいたずらぐらい大人なら大目に見てやれよと逆に批判めいた感情ものぼってくる。
  神妙な面持ちで彼を肩からおろした三郎は、家に上がるさい自らはだしのままで汚い我が子の足を手で払い、手ぬぐいで泥を拭き上げる。
  そうして手を繋いだまま(逃げられると思っていたのか)廊下を歩き、母屋の中庭に面した書斎へと入る。中庭には小さな築山と池があり、添えられるように置かれた石灯籠の脇には南天が生えている。
  意趣を凝らした造りとは思えないが、そもそも庭園なんか持った村人などここ以外にいはしない。
  繕った跡の多い障子に林家の地味な歴史を感じつつ、慣れぬ正座に足の指をもぞもぞさせながら部屋をじろじろと見回して見る。
  飴色に輝く小さな文机と枝垂桜の描かれた屏風。そしてこの時代の贅沢の象徴の燭台と志野っぽい色の火鉢。派手さはないものの、ほかの村人は誰ひとり持ち得ない贅沢の空間である。
  何より、膝下に感じる畳の感触が懐かしかった。


  (畳って、ぜいたく品なんだな…)


  自分の家は生まれたときから板張りなので不自然には感じなかったが、こうして畳の柔らかさに接すると、これは東アジア文化圏の絨毯なのだなと思う。誰だって床は柔らかいほうが気持ちいいのだ。


  「待たせたな」


  そのとき貞正様が部屋に入ってきた。
  すでに作務衣を着替えて、こざっぱりした茶色の着流しになっている。着流しといっても襟首をピシッとしめて、砕けた感じがまるでない。見た瞬間、彼は子供のころに見た加藤剛扮する大岡越前を思い出した。
  じっと、祖父の目が彼を観察する。
  居心地が悪くてモジモジし出しそうになるが、それだと負けたような気がするので逆にこっちから目を見返してやる。私生児だが文句あるか! ぐらいの意気込みである。


  「名は」


  短く問われる。


  「草太」


  それは彼の名だが、この時代の風習として、子供が幼いうちにつけられる幼名のようなものがある。たしか「そのへんの草みたいの丈夫に育ってほしい」という願いが込められていたと聞くが、草はなかろうと子供ながらに思う。心はおっさんだが。草って、そりゃ雑草のことだろう。


  「寺の和尚に聞いたんだが、おまえは算術が得意らしいな」
  「???」


  すぐにはピンとこない。
  が、そのすぐあとで該当する記憶がよみがえってくる。
  ああ、あれか。
  先日大沢川を探検していたときに、気がつくと普賢寺前までやってきてしまった。そのときに小さな騒動があって、賽銭をちょろまかそうとして失敗した村のガキが逃げ出してきた。そのガキはまんまと逃げおおせたのだが、お堂の前でこぼれた賽銭を拾い集めている和尚とそのとき目があってしまった。
  共犯といういやなフレーズが頭に浮かんで、それを打ち消すべく彼は自ら寺の境内に入っていった。


  「おお、すまんなぼうず。手伝ってくれるか」


  こくり。
  頷いて見せる。
  田舎の寺だから、賽銭などたいした額にはならない。が、寺の重要な収入源のひとつであることも間違いではない。
  賽銭は銅銭ばっかりだった。この時代の銅銭にはいくつか種類があり、1文銭と4文銭、10文銭などがある。ちょっとずつ大きさが違うから見分けはつく。


  (1文銭43枚に、4文銭4枚、…おっ、宝永通宝(10文銭)も1枚あるぞ)


  前世で事務処理ばかりしていた癖か、暗算で合計してしまう。
  しめて69文。


  「はい、69文ちゃんとある」
  「………」


  そういえば和尚が驚いた顔してたな。そのあと逃げるように帰ったから気にしてなかったが、そうか、和尚がそんなことを告げ口して…。
  回想から戻った意識が、眼前の厳しい祖父の目にさらされる。
  全身に嫌な汗が浮き出した。








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修正履歴:(11/4/28)根本代官所の存在を確認。そうだわな。2000石も所領があって、代官を置かないわけもないか。現地も見てきたので納得。というわけで普賢下の林家が代官業務というくだりを修正いたしました。




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