『インフリ!!』





  第8章












  キャッツランドは辺境の強国である。
  銀河の四半を占める広大な人類領域の最外縁、『辺境国』と呼ばれる千余の星系国家群において、キャッツランドは雄国の五指に数えられる。
  総人口は二億人。この数字だけを取り上げてみれば、中央世界に比べ人口密度の希薄な辺境諸邦のうちでも、やや少ない部類に入るであろう。そのキャッツランドがなにゆえ強国たりえたのか。


  「薄汚い牝猫が」


  キャッツランドの不幸な生い立ちを知る人間たちはそう嘲弄することをはばからず、彼女たちを不当に蔑視した。文化人的な理解と寛容さを持たない辺境の移民たちは、キャッツランド人の優れた面を見つけるたびに、賞賛するかわりに侮蔑の言葉を吐きかけた。人とさえ認めようとはしない者たちさえあった。
  銀河統一暦八二六年のキャッツランド人旅行者に対して行われた『貨物扱い査証』事件をきっかけに、彼女たちは現実を甘んじて受け入れ続けることを放棄した。おのれの誇りをおのれの力で購うことを決意したのだ。
  もともと身体能力的に優秀であった彼女たちはまたたくまに勇猛果敢な精兵になりおおせた。蔑視政策をやめなかった国々を、キャッツランド軍はまさしく狩りのごとく蹂躙した。戦勝国の権利として資源権益を強奪し、破滅的な国家賠償を要求した。それらの富が、湯水のように宇宙戦力の拡充に費やされ、現在の辺境の一星系国家ではありえぬ二万数千余の大艦隊を保有するにいたるのである。




  * * *




  「貴国が拉致したわが邦人を返していただこう」


  キャッツランドの大使は、モンク政府の首脳らを前にして昂然とそう言い放ち、けっして政治的な妥協を示そうとはしなかった。
  国外退去しようとするキャッツランド大使を捕まえての最後の交渉も不調に終わり、モンク人たちは頭を抱えた。すでにこのとき、両国のあいだの外交チャンネルはほとんど断絶していたといってよかった。モンク政府はあらゆるつてをたどり交渉を持ちかけようとしたが、キャッツランド側の傲慢なまでの強硬姿勢が改められることはなかった。
  拉致したなどと、あれではまるでわれわれが誘拐でもしたようではないか。われらはあくまで、一亡命者を星団法の保護義務に基づいて受け入れただけにすぎない。
  それがたまたま、キャッツランド女王の愛人だっただけで、その愛人に愛想をつかされた女王個人が悪いだけではないか。モンク星人のだれもが悪態をついた。


  「ものの道理もわからないケダモノどもめ」
  「その愛人とやらを探し出して、奴らの鼻先に吊るしてやれ!」






  銀河統一暦九九八年九月……モンク戦役は、前線の兵士たちの預かり知らぬところで刻々と深刻の度を深めようとしている。
  ひとつに、キャッツランドを取り巻く国際環境の悪化があった。
  当初はこじれた両国の感情を解きほぐし、なんとか平和裏に解決を図ろうとしていたモンク政府であったが、キャッツランド側があくまで亡命したキャッツランド人、チーニー・フェンネルの身柄を引き渡しにこだわり、高圧的な姿勢を崩さないことで、その方針を転換するに至ったのだ。
  外交感覚という点において、モンク人はキャッツランド人と違って柔軟性を欠いてはいなかった。武力に勝るキャッツランドと単独で戦う愚を回避すべく、彼らは周辺星系に手を回した。
  何事にも武断的なキャッツランドのやり方に、言葉には出さねど鬱屈した感情をもっている国は多い。積極、消極を問わず、多くの星系国家がモンク政府に協力を約した。
  その影響が、前線に向かうキャッツランド第九艦隊にも届き始めているのだった。


  「ルーエンが、わが艦隊の通過を許可しないといってまいりました」


  主席参謀クオン・ニムルスの報告は、その聞かせたい相手の耳を右から左へ、一言一句余さずこぼれ出しているようであった。が、辛抱強く、ニムルスはおのれに課せられた職責を果たすことに集中した。


  「すでにルーエンは警備艇を領海面に並べて、即応の姿勢を見せています。隣国シカンもこれに同調するような声明を発表しています。取るに足らない戦力ですが、他国の正規軍と独断で事を構えるわけにはまいりません」


  少しだけ言葉をおいて、おのれの報告を聞いているはずの上官を流し見たニムルスは、わざとらしく咳払いした。
  執務机に頬杖をついて、据え付けのモニターを食い入るように見つめていた艦隊司令ニーナ・ニオールは、ちろりとニムルスを一瞥すると、


  「そうなの」と、ぼそりとつぶやいた。


  気もそぞろなニーナの返事に、ニムルスは眉間に皺を寄せた。
  他星系の領海を侵すことなく敵星系へと行き着くためには、大幅な迂回路をとることになる。そうなれば、早急に作戦スケジュールを見直す必要がでてくる。


  「ルーエン国との衝突は避け、いったんムートン錨地までさがって統帥府の指示を待つか、もしくは作戦スケジュールを墨守してルーエンとの単独交渉に入るか、さもなくばひたすら迂回路を取るか……提督の早急なご判断が必要です。…小官が愚考いたしますところ、ここはいったんムートン錨地に後退して…」
  「じゃあ、そうして」


  ニーナは、また真剣味のない返事をした。
  これにはニムルスも渋い顔をした。


  「提督、そんなにそちらがお気になるのなら、立てこもった海賊たちの要求をお聞きになりますか?」
  「聞ける要求と、そうでないものがある」


  何度も掻きまわして、すっかりぐしゃぐしゃになったにんじん色の髪が、首の動きに合わせて揺れ崩れた。モニターされたある室内の様子を、食い入るように見つめていたニーナが、顔を上げた。
  魂の抜け殻のようになったニーナ・ニオールの一瞥に、ニムルスはわずかに身じろぎした。虚脱したその表情の奥には、危うい均衡を保つ感情の反物質がなみなみとたたえられている。うつつと触れ合った瞬間に、おそるべき対消滅を起こして第九艦隊そのものを破滅させかねない。


  「偉大なるキャッツランド宙軍が、海賊ごときの脅迫に屈するような前例を作るわけにはいきません。お気の毒ですが、ヴィンチ少尉のお命はもはやなくなったものと…」
  「馬鹿なことを言わないで!」


  ニーナの払いのけた手が、淡く煙を吐き出していた香炉を部屋の隅にまで飛ばした。鎮静効果があるとキャッツランドでもてはやされている、抹香のような匂いのする樹皮の炭が、勢いよくまわりに散らかった。
  肩で激しく息をしながら、ニーナは浮かしかけた腰を落した。


  「では、どういたしますか? 海賊どもの問題はいったんこのまま捨て置いて、ルーエンとの問題に当たられますか? それとも」
  「艦隊の運行は一時少佐に一任する」
  「提督が指揮不能と判断されるような状況でもない限り、指揮権の委譲は認められません。だいいち士官の序列でゆくなら、小官よりもまず先にドヌーブ艦長がおられます」
  「それじゃあ、艦長を呼びなさい」
  「提督」


  ニムルスは、わずかに声を強めた。


  「ニーナ・ニオール中将は健在です。指揮不能であるとも認められません」


  ニムルスの揺るぎない眼差しに、ニーナが目をすがめた。知らぬ間に爪が伸びていたのか、机の木目を引っ掻いた。


  「それじゃ、迂回させなさい」


  ニーナの捨て鉢ぎみな命令に、ニムルスが端末から星図を引き出した。
  机の上に展開した星図の星たちが、またたくまに色分けされていく。


  「改めて説明させていただきます。…緑がルーエン国の領海、青がシカン国の領海を示しています。黄色の線が銀河公路の道筋です。ルーエン国の公路を使わないとなると、天頂方面に移動して…」
  「じゃあ、そっちにいけばいいわ。そうしてちょうだい」
  「しかし提督、それでは作戦スケジュールに影響が出ることになります。銀河天頂方向に移動して、公海面(銀河表層部)を使うにしても、およそ十日の遅れが見込まれますが」
  「わざわざ公海面まで出る必要などないじゃない。ここがあいてるわ」
  「そこは暗黒空間です。航路は開かれていませんし、恐ろしい質量のダークマターが広範囲に確認されています。ふつう通行するようなところではありません」


  即座に否定したニムルスに、ニオールは鼻を鳴らした。


  「ふつう? 戦時行動はその「ふつう」に該当するのかしら?」
  「キャッツランド宙軍規範にあります。項目二四、やむを得ぬ場合を除き、艦の運行責任者はむやみに危険宙域を使用してはならない……まだ選択の余地のあるいまの状況が、この『やむを得ぬ場合』に該当しないことは、八七二年のキャッツランド中央軍事法廷での判例が示しています」
  「ふーん」


  聞いているのかいないのか、ニーナはまたモニターの映像に顔を寄せている。
  モニターの向こうでは、数人の人影がうろうろと落ち着きなく動いている。懲罰房を脱走して、ある一室に立てこもっている海賊たちである。
  なかのひとりがカメラに向かって大あくびをしてみせると、ニーナの執務机がドンと大きな音を立てた。丈夫な造りの机でなかったら、ひびでも入りそうな強烈なドツキである。


  「提督」


  ニムルスが言いかけたが、それにニーナの言葉が重なった。


  「きさまら、わたしのもンにさわんじゃない!」


  モニターの向こうで、海賊たちがげらげらと笑った。
  現在、キャッツランド第九艦隊二千隻、四十万将兵は、たった三十人あまりの海賊たちに半ば膝を屈するような状況下にあった。海賊たちは艦隊司令ニーナ・ニオールの専任副官エディエル・ヴィンチ少尉を人質に、虜囚となった海賊全員の身柄解放と、新鋭艦十隻の引渡しを要求した。
  むろん、要求されたところで応えるわけにはいかない。他の艦艇に収容された海賊の身柄解放程度ならまだしも、引渡しを求められている艦艇は、キャッツランド国民の血と誇りとで購った国家財産である。一司令官の左右していいものではなかった。


  「病室に無力化ガスを散布すれば、あのような犯罪者どもなど一網打尽です」


  ニムルスの後ろに控えていたジェダ・アーリ大尉が、淡々と提案した。
  軍艦はもとより、商用客船やクルーザーのたぐいにも、暴徒を鎮圧するための無力化ガスが標準的に装備されている。一歩間違えば全乗組員が死に至ることすらある危険な宇宙空間を航行するからこそ、いついかなるときでも運行責任者の意思ひとつで、あらゆる種類の人間を沈黙させる防衛装備が必要であるのだ。


  「我々の一致した見解です。提督」


  ジェダ・アーリの継いだひとことに、ニムルスが首肯した。


  「暴徒鎮圧の成功率は八○%以上です。判断を留保すべき理由はまるで見当たりません。海賊の要求を飲む気がないのでしたら、無力化ガスの使用が最有力の選択肢であることをご理解ください」
  「海賊どもも、ガスの危険性ぐらいとうに計算しているわ。見なさい、やつら絶対にエディのベッドから離れやしない! もしもガスの効きが遅くて、エディにやつらの害が及んだりしたら…」
  「ガスはきわめて即効性の強いものです。ガスの噴霧をどんなに早く知覚したとしても、海賊たちが次の行動に移る猶予はほとんどありません。ヴィンチ少尉の身に危害が及ぶ確率は二○%以下です」
  「だから、その二○%のことが起こったときはどうするのよ! あのクズたちは、無辜の市民をいたぶることを何よりの楽しみにしている最低の連中よ。絶対にわたしたちがそうなってほしくないと思ってるなかでも最悪のことをやるわ……あいつらは知ってしまっているのだもの。あの子がわたしの大切なアイジンだっていうことを!」


  海賊を十人も情け容赦なく処刑しておいて、しゃあしゃあとニーナが言い募るのを、ふたりの参謀は冷ややかに受け流した。


  「そのときは運がなかったとお諦めください」


  ふたりの唱和に、ニーナは酸欠の魚のように開いた口をパクパクとさせた。二、三度言葉を出すのに失敗して、ニーナはあえぐように情の薄いふたりの部下を非難した。


  「あんたたちはいいわ! 女同士で乳繰り合っていれば満足できるんだもの! でも母なる精霊の定めた戒律を守る正常なキャッツランド人なら、たとえどんな状況だろうと、けっしてオトコの……ましてやあんなかわいいオトコの子の……命を危険にさらそうなんて想像もしないはずよ。そんな冒涜的な判断ができるはずないわ!」
  「否定はしません。しかし同性愛者を異常者と決め付けるのはおやめください。母なる精霊の戒律を守り、まっとうに男を手に入れられる方々はほんの一部でしかないのですから。提督はそのほんの一部に属していられる幸運な方です」
  「そうよ! わたしはその特権を得るために精一杯努力をしてきたわ。否定なんかしない。わたしは世間一般にいう、ほんの一握りしかいない特権者よ。十何年ものあいだ苦労して、やっとあの子を手に入れたの。…なにが悪いの? 権利を得るために十分な代償を支払ってきたわ。そうして、あの子を手に入れたの! あの子は、わたしのなの!」
  「提督…」


  そのとき、モニターの向こうで、海賊のひとりがだみ声を上げた。


  「うめえ食いモンをどっさり持ってこい! 人間さまがちゃんと死なずに食えるやつだ」


  このモニター映像は、海賊たちの要求で、映像のみ双方向化されている。
  不穏な暗雲が垂れ込めるニーナ・ニオールの表情を見て、海賊たちは腹を抱えて笑った。


  「そうだ、ニオール。てめえが運んでこい。全部てめえが運んで来るんだ」


  手にしたナイフを曲芸師のように器用に投げて遊ぶその海賊は、人質のベッドであぐらをかいて坐っている。少しでも手元が狂えば、ナイフが専任副官の少年を傷つける恐れが多分にあった。


  「おっと」


  言っているそばから、海賊がナイフを取り落とした。
  思わず椅子を蹴倒して立ち上がったニーナが、真っ青になってモニターにかぶりついた。


  「いやぁ、アブねえ、アブねえ」


  わざとやったのだろう、ナイフは狙いすましたように少年の耳元をかすめてクッションに突き刺さった。少年の身に傷は付かなかったが、枕もとに広がったシャムミルクの見事な髪が、ひとすじ切れ散った。


  「あいつら、絶対に殺す!」


  ニーナの押し殺したつぶやきが聞こえでもしたように、海賊がふとく応じた。


  「おう、オレらを殺してえか」


  ペン立てを掴んで絨毯に叩きつけると、ニーナは回れ右をした。


  「提督、どこへ?」
  「決まってるでしょう! やつらの要求を満たしてやるのよ」
  「危険です! 提督ご自身まで人質にされたら、いよいよ事態の解決が困難になります。いまの要求は、交渉すればなんとでもなる性質のものだと…」
  「わたしはエディの様子をこの目で見に行くの。誰があんな宇宙ゴミふぜいの言いなりになるものですか! 食料を持っていくのはついでよ」
  「再考を求めます! 提督に万一なにかがあった場合は…」
  「そのときは、何も迷うことはないわ。わたしたち二人の命など顧みることはありません。即座に無力化ガスの使用を許可します」


  ニーナはそういうが、ニムルスとて参謀としての責務がある。常軌を逸した上官の行動を諌止するのは、彼女たちに求められる最も重要な職務のひとつであるといえただろう。


  「提督!」


  さっさと執務室から出て行くニーナの背中を唖然と見送ってから、ニムルスは我に返って傍らの同僚を目で促した。ジェダ・アーリ大尉は、肩をすくめて首を振った。


  「お好きにさせたらよろしいでしょう」
  「ジェリー」


  少佐が司令官の解任動議を起こされたら、まず一票は確実に確保できますよ」




  * * *




  ここは……どこだろう?
  感覚がはっきりとしない。方向感覚も、五感も、そして考える力も。ただ、あやうい浮遊感ばかりが意識の大半を占めていた。


  (ぼくは……死んだのかな。なら、ここはおばあ様のいる天国?)


  手のひらを広げてみる。記憶にあるとおりの、自分の手。
  ついでに足も見る。やっぱり何事もないかのようにそこにあった。
  だが、実際に「見ている」という感じがなかった。リアリティがないのだ。


  (夢…?)


  思い返そうとしても、自分がベッドにもぐりこんだ記憶はなかった。寝入る際の記憶が定かでなくなるほど疲れていた覚えはないし、そもそも出かけた先のムートン錨地から、カーリカーンのおのれの私室に戻ったという覚えもない。
  それではやはり、自分は死んだのだ。
  理解が及んだ。その結論がもっとも合理性のあるもののように思われる。
  ということは、やはり宇宙で死んだ戦士は、死後に至上世界にいくのだろうか。ここが精霊さまの住まわれる至上世界? 銀河の中心にあるという時の流れのない至上世界とは、こんな世界だったんだろうか。
  意識が周囲に及ぶ。だがまわりにそれらしい輝きはない。それどころか、無明の暗がりが奥底知れず広がるばかりである。光源がないのに自分の手足が見えるという論理は矛盾している。つまり、ここが物理法則の支配する世界でないという推測だけはたしかに当たっているのだろう。
  身体に震えが走った。
  寒い。生命本能に根ざした感覚が、手のひらを擦りあわさせた。息を吐けば白く凍りそうであるのに、そんな兆候などないままに、ただ寒かった。
  そうだ、たしか自分は、海賊の銃にわき腹を撃ち抜かれて、そして気を失って……提督はご無事だったのだろうか。自分は使命をまっとうできたのだろうか。
  この得体の知れぬ寒さは、気を失う前にもちらりと感じた感覚だった。わき腹の傷から、自分の命そのものというべき熱い血が、水道の蛇口をひねったようにとめどなくあふれ出ていく。手で押さえても、あふれ出す血が止まらなかった。血がなくなっていくほどに、命の実感が遠のいていった。この寒さの原因は、血が足りないからに違いない。


  (誰か…)


  救いを求める声を上げようとしたが、無限の闇が声を吸収してしまう。
  絶対の孤独。孤立感。
  寒さが耐えがたかった。まるで星さえも輝かない、宇宙の深遠のさらに彼方、空間としてさえ定かには生まれ出でていない、文字通り宇宙の果ての何もない場所にたったひとり放り出されてしまったかのようだ。
  これが「死」なのか。自分のたいして強くもない精神では、到底長くは耐えられそうもない抗いがたい孤独。寂しさを紛らわすために、自分にゆかりの深い人たちを思い出そうとした。
  十歳のときを最後に、連絡ひとつ取れなくなった家族……母と姉の記憶はすでにおぼろげである。腫れ物でも扱うように息子に接していた母は、おそらくキャッツランドの厳格な法律におびえていたのだろう。かわりによく姉をなじり、はげしくぶった。姉は特別扱いの『弟』に、笑顔を向けたことがなかった。いつも不機嫌そうに目をすがめていた。
  家族の記憶は、苦味をともなった。
  イメージを振り払い、反射的に別の顔を記憶の底から手繰り寄せた。
  チョコミントを溶かしたような変わった色の髪。トルコ石のように明るい青い瞳。勝気そうな眼差しが、彼を間近に見下ろして、くすくすと笑いに揺れた。
  お隣のお屋敷に住んでいた、幼馴染みの少女。子供たちのなかでいじめられている彼を、いつも魔法のように一番に発見して助けてくれた。彼女は魔法使いだった。


  (クラン姉さま…)


  肩から回された腕は、優しく彼を包み込んだ。年上のクランからは、かすかにシャンプーの香りと、甘酸っぱいフェロモンのにおいがした。彼女と何度も約束した。


  (あたしがあなたを守ってあげる。だからアイジンになってね)


  十歳になって施設に移された後も、彼女だけは魔法のように監視の目をかいくぐり、メールを送ってくれた。連絡はいまも絶えたことがない。彼女は何年か後に中央士官学校に進み、いまは『第十艦隊』という新設の艦隊に勤務しているらしい。自分といくらも年の変わらない彼女が艦隊の司令官になったというメールはさすがに冗談だったのだろうけれど、魔法使いの彼女ならば、もしかしたら本当の話なのかもしれなかった。


  (あれから、ぼくだってずっと軍人になる勉強をして…)


  それからつらつらと、いろいろな人の顔を思い浮かべていった。
  中央士官学校の鬼教官、寮のルームメイト。同じまなびやで学んだ同級生たち。何かとしつこく言い寄ってきた寮長やクラブの先輩に下級生。同性同士の異常な恋愛感情には辟易したのだけれど、腹を割って話せばそれほど悪くない人たちだった。
  二科の主席を争ったライバルたち。事務的だけれど優しくしてくれた学校の職員の人たち。
  初めて赴任した宇宙艦カーリカーンの面々。少し怖かったけれどとてもいい人のケイティ軍曹。いかめしいドヌーブ艦長。厨房のコックさんたち。警衛隊の人たち。宙軍士官はかくあるべきとお手本のような参謀のニムルス少佐とアーリ大尉。
  そして……ニオール提督。
  提督はご無事だろうか? こんなことになるのなら、提督に求められたときにこの身を差し出してしまえばよかった。あんなにも提督が欲しがっておられたのに。


  (提督は……ほんとうにぼくを愛していらしてくれたんだろうか)


  危険を承知で、海賊の銃口に飛び込んできてくれた提督。提督をその行為に駆り立てたのが自分への好意ゆえなら、それはまさしく真実のものであろう。自分はその思いに応えられなかった。
  人を見る目が、なにより覚悟がなかったから。


  (提督)


  涙があふれてきそうだった。死んでもはや体さえないというのに、おかしな感覚だった。


  『あたしのエディになにすんの!』


  提督の声がまるでいま聞いているかのように鮮明に耳に届く。


  『ああ、かわいそうに、泣いてるじゃない! あたしのエディになにをしたの! あんなに泣いて……って、泣いてる?』
  『勝手に入ってくんじゃねえ! このアマ!』
  『エディ! 目を覚まして、エディ!』


  あまりの懐かしさに、涙があふれた。
  提督の声だ。ニーナ・ニオール中将の、第九艦隊四十万将兵に号令する声は、たしかにこんなだった。
  寂しさが和らいだ。胸になにか暖かいものが注ぎ込まれてくるようだ。
  これからは提督のことを思い出していれば、寂しさを紛らわせていられるだろう。


  『エディ! エディ!』


  提督の顔とあの声さえ忘れなければ、この冷え冷えとした暗闇のなかでもおのれを保っていけるだろう。
  安心すると、意識が薄らいだ。
  世界は急速に暗転した。






  「ニオール! てめえ、なんだその格好は!」
  「なめてんのか、このアマがッ」


  熱いスープが投げつけられて、思わず悲鳴をあげそうになったニーナであったが、おのれを守っている盾の存在に気づいて嘆息した。
  厚さ十センチの多層合金が彼女の全身を覆っている。艦隊の猟兵部隊が正式採用している機動装甲服『ウェルカムキャット』の防備は、小火器相手ならばまず絶対の安全性を持っていた。
  ニーナが腕を振ると、身の丈二・五メートルの鋼鉄の巨人がそれを拡大再現する。海賊たちが悲鳴をあげて部屋のなかを逃げまわった。


  「待ちなさい! 争うつもりはありません!」
  「あたりめえだ! 物騒なもん着込んできやがって、そんな格好で近づいてくんなってどんだけか言ってやったのに、集音機が壊れてんのか?」
  「食料を持ってきてやったわ。食べなさい」


  配膳用の小さなカートには、室内の人数に数倍する食事が載っている。海賊のひとりがトレーごと一食分を取り上げ、さっそくがっついた。


  「そいつに異状が出たら、すぐさまてめえの副官をなますにしてやるからな」
  「まじい料理だな……これだから軍隊の保存食は……もっとうめえもんはねえのか? あるんだろう? てめえら偉いさんが食ってるような高級品がよ」
  「これがそうです。わが軍のレーションで一番高級な組み合わせを…」


  まずいとか言いながら、試食係の海賊が必死でがっつくのを見て、ほかの海賊たちも食事に取り掛かった。室内だけで、十二人。外の廊下にも、数人の海賊が陣を張っている。
  彼らのようすをうかがいながら、ニーナはそろりと副官の少年が寝かされたベッドに近づこうとした。
  意識のない少年の目じりから涙がこぼれたのは、目の錯覚だったのだろうか。海賊たちさえいなければ、いますぐにでも駆け寄ってこの手で確かめたいところなのだが、状況がそれを許さない。
  ニーナの動向を目を皿のようにして監視する海賊が何人かいる。彼女とベッドとのあいだに、電磁ナイフを剥き出しにした海賊が三人も控えている。強行突破などとんでもなかった。


  (うう……エディ)


  彼女が少し腕を上げるだけで、ベッドで構える海賊が、エディエルの首筋にナイフを近づけた。電磁ナイフは直接触れなくても人間の皮膚ぐらいは裂いてしまえる。


  「さあ、出て行け。妙な真似しやがったら、その場でてめえの愛人をざっくりいくぜ」


  ニーナは口惜しさに震えながら、後ろ歩きに廊下に出た。ドアを出るときに頭部を壁にぶつけて、思わず「あいた」と漏らした。装甲服を身につけているから痛みなどなかったのだが、なんとなく頭のあたりをなでてみる。


  「あ〜あ、へこませやがった!」


  海賊の声に、ニーナもぶつけた壁のほうを見た。軽合金製の壁が、見事にゆがんでしまっている。


  「おい、ドアが閉まらなくなっちまったじゃねえか! どうしてくれんだ」


  艦をどうしようと艦隊司令である自分の勝手だといいかけて、ニーナは口をつぐんだ。少年の命を確実に救うまでは、どんな屈辱にも耐えてみせようと彼女は決意していた。
  ドアの点検をする海賊に、ニーナは「気になるのなら部屋を替えなさい」と提案した。もしも海賊たちが部屋を替える気になったら、引越しのドサクサに隙ができるかもしれない。


  「そうだな、部屋を替えてもらおうか」


  海賊たちの首魁と思われる「頭目」が、まっすぐにニーナを見た。


  「こっちの指定する『部屋』を明け渡してもらおう。司令官閣下、条件について、よもや依存はねえだろうな」
  「この艦にある空き部屋だったら、どこだって提供して差し上げます。いっそのこと、わたしの部屋を明け渡しましょうか? いちおうそれなりに設備も整っていますから」
  「…協議して、連絡しよう」


  油断なく、頭目は言った。
  本人たちに自覚があったかどうかはさだかではないが、首脳同士による海賊との最初の直接交渉は、こうして終った。






  「副官殿グッズ、大量入荷!」


  船底倉庫、第九艦隊一の地下マーケットが開かれる秘密の区画に、そんな立て看板があがった。
  主計副長、フーロン・メセの店に、客が長蛇の列をなした。


  「ただいま最新の、『副官殿』映像だよ! 接写もアリの特別映像だ」


  店主の掛け声に、客たちが陳列された商品に目の色を変える。
  無防備に眠りにつく美少年副官の、どれもこれもいままで実現し得なかった距離からの接写映像で、しかも通常ならば本人の協力なしには撮影不可能な絶妙のアングルを得ていたため、客の反応も非常に高い。


  「例の部屋で寝てるホロだろう? どうやって撮ってるんだ」
  「んなこたあ商売の秘密だよ。売り出しは今日限りだからね! 迷ってるひまなんざないよ! 一画像につき、複製は十枚限定だ」


  値段はどれも、一般兵士が愕然とするようなものである。食い入るようにホロを見つめながら、生唾を飲み込んでいる兵士たちが多い。


  「分割はダメなの? 年末のボーナス払いでお願い!」
  「ならこの書類にサインしておくれ。いっとくけど、十二回払いまでしか受け付けないからね!」


  笑いが止まらないというのはこのことであろう。月賦払いの契約書にサインする兵士はひきもきらず、『副官殿接写ホロ』はまるで羽が生えたように次々に売れていく。
  この日一日で、フーロン・メセは、三年は豪勢に遊んで暮らせるほどの収益を手にした。自然、彼女の口許は緩みっぱなしであったが、泣く泣く商品の購入手続きをした兵士たちからは怨嗟の声が猛然とあがった。彼女たちがのどから手が出るほど欲しがるのを知っていて、足元を見るあこぎな商売だというのだ。
  だがフーロン・メセには馬耳東風である。商品があらかた払底したところを見計らって、彼女はもうひとつの看板を店先に立てかけた。




  『副官殿救出隊、参加者急募! 委細面談。報酬物納』




  当然のように、質問があがった。
  副官殿救出隊、というくだりは、むろん説明など求められない。この場にいる兵士たち全員が多かれ少なかれ心のなかで想像していることである。
  海賊に囚われた美少年を万難を排して救い出したヒロインが、当然のごとく成功の報酬を手に入れる。報酬とはむろん、少年の感謝と愛である。
  そんな三文芝居的な筋書きを兵士たちは妄想のなかで共有していたが、だからといって具体的な手立てがあるわけではなかった。
  委細面談、というのも分からないではない。仕事の募集とはすべからくそんなものだから。
  兵士たちが問うたのは、最後の『報酬物納』というくだりである。わざわざ物納と書くからには、それだけ特別なものなのだろう。薄々は予想できていても、やはり問わずにはいられまい。


  「なんなのさ、その物納って!」


  フーロン・メセは、ひとつ咳払いして、軍服の皺を伸ばした。


  「副官殿の秘密救助部隊をここに設立する! 報酬は副官殿を救出するための活動実数日相当、日当として支給される。勘のいいのはもう分かってるだろうけど、報酬は『副官殿』関連の未公開ホロ」


  どよっ、と兵士たちが沸いた。


  「今日売り出したホロなんざ、この報酬で配られるやつに比べればなんてことないそうだよ。なんだか相当にきわどいやつもあるみたいだからね! そいつを手に入れるか諦めるかは、あんたたちの判断だ」


  フーロン・メセが両手に書類を掲げると、兵士たちが群がり寄った。それはもう、すごい勢いで。
  第九艦隊旗艦カーリカーンの船底で、いまひとつのうねりが起きようとしていた。
  それはしずかに、そしてまたたくまに、口コミによって第九艦隊全艦に波及していったのだった。






  「なんだきさまは? なにかいまやってやがっただろう?」


  突然の声に、看護兵タンダは憔悴した顔を上げた。
  分け与えられた食事にも手をつけず、ぶたれたときの鼻血のあとも満足にきれいにしていない彼女のようすは、その海賊に少しだが哀れみを覚えさせていたのだろう。その海賊も半日前までは囚われの身で、捕縛者による理不尽な処刑に恐れおののいていたのである。
  いまそれと似た境遇にあるこの不幸な看護兵に、海賊が憐憫を覚えてもけして不自然なことではあるまい。
  海賊の追及は厳しくなかった。タンダが後生大事に抱え込むバッグの中身を改めもせず、視線をはずした。
  このバッグの中身は、いまや彼女自身の命よりもずっと大切なものになっていた。身を削るようにこつこつと貯めつづけた、貴重なコレクション。
  データの送信は無事に済んだようだ。これで彼女の貴重なコレクションの一部が、地下マーケットに流失した。大切な人の、大切な命をあがなうために。


  (少尉殿は、あたしが助けるんだから…)


  ぼそりと、タンダはつぶやいた。









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