『人類王国物語 ゴンドワナ史』





  第三話    『超人』












  古来、未来を見通しうる見者のまつりごとは、過ちが少ないとされていた。
  人の嘘を見抜く読心者の審判は、完全正義が守られるとされた。
  目に見えぬ異能を操る念者のいくさ働きは、百人の兵と同等とされた。
  よって過ち少なき者たちが支配者の椅子に座ることを、人々は是とした。これが人類王国のよって立つ思想である。
  王国暦三二五年の殿試合格者は、一二人とされた。


  うち、第一身分(貴族階級)出身の者十名。
  うち、第二身分(市民)出身の者二名。


  マルカは自分の合格を疑わずに、名前を呼ばれるのをじりじりと待っていた。
  下層民の合格者がふたりと聞いて、自分とあの少年だと勝手に思い決めた。貴族たちと比べれば、いくつかの試験成績で見劣りしたかもしれない。だけれど、もっとも難関と予想されていた方陣試験は会心のデキであった。七点鐘まで耐えたのは自分とあの少年のふたりだけであった。つまりは全体で二位ということである。試験官たちに影響力が強いであろう貴族たちの目の前でのアピールが成功したのだから、これはおおいに期待してよかった。
  ひとり、またひとりと名前が読み上げられ、子供たちが国王の前へと進み出てゆく。
  ここでも暗黙の了解事項があって、合格者の親の力関係が呼ばれる順番に反映される。先に呼ばれるのはむろんのこと貴族の子弟たちで、親の宮廷内での序列順に呼ばれている。『百の目』の一族であるあのクラウド・トレゴレンの名もあげられ、彼はある公爵の子供のあとに呼ばれた。
  貴族の子供たちが呼ばれているあいだにも、会場の子供たちの緊張が高まってゆく。子供の大多数を占める下層民の子供たちにとって、合格は限りなく狭き門をくぐった先にある。合格者の席は二つ。倍率は千分の一に近い。
  そのたった二つの席を獲得した者の名が呼ばれるのは、むろんのこと十人の貴族子弟たちのあとである。


  (あいつら、全員合格った…)


  マルカは肺が中から熱くなるような焦燥を覚えた。クラウド・トレゴレン以外のやつらに負けた覚えは一切なかった。どの試験をとっても、マルカが上回った。
  これで自分が落ちたらお話にもならない。いや、自分は必ず合格するはずだ。
  そして、貴族子弟の合格者十人の名が呼び終えられた。
  会場全体の子供たちがいっせいに生唾を飲んだに違いない。マルカも息を詰めた。最初に呼ばれる名前が自分のものでありますように!
  だが、先に呼ばれたのは彼女の隣に立ち尽くしている黒髪の少年の名だった。


  「ウルガのフォー・チュアン」


  ああ、やっぱりと、納得と羨望のため息がそこここで起こった。マルカもがっかりしたけれども、結果には納得した。『臼砲』試験での驚異的な記録、それに『方陣』試験で二位の彼女を助け抱えたのもこの少年である。下層民で成績トップは誰かとするなら、やはりこの少年ということになるのだろう。


  (次に呼ばれるのがあたしの名前なら文句ないわ)


  予想通り片方の少年の名が挙げられたのだから、残りのひとりに彼女が残っている公算は高い。周囲を見渡しても、自分より好成績を上げていた子供はいなかったはずである。


  (次は「マルカ」よ。「バザーのマルカ」)


  そして運命の瞬間…!
  名を読み上げる大臣のひと呼吸に、会場の何千もの目が食い入るように見入った。


  「アルベルト・コーエン!」


  アルベルト・コーエン……無意識におうむ返しにして、マルカは瞬きした。
  国王の傍らの大臣が最後に読み上げた子供の名前は、彼女にとんと聞き覚えのない名前だった。アルベルト? 誰だ、そいつは?
  少なくとも、呼ばれたのがマルカの名でないことだけはたしかだった。
  突然、身体の支えがなくなってしまったかのように、マルカの視界がぐらりと揺れた。それを隣の少年が受け止める。名前を呼ばれたくせに、まだ国王の御前に歩き出そうともしていなかった黒髪の少年である。


  (なんで呼ばれたのがあたしの名前じゃないの…? アルベルト? あたしの名前はそんなんじゃないのに)


  支えられながらも、嬉々として進み出たアルベルトなる少年の姿を目で追って、それがウルクでも指折りの富商の息子であることを知った。回船問屋のバカ息子といってくれればすぐに分かったのに。たんに名前を知らなかっただけだ。
  少年の腕に抱えられながら、マルカは呆然と、現実に起こってしまった光景を目に焼き付けていた。
  蓋を開けてみれば、結局例年どおりの光景ではないか。貴族と、金持ちの子供が試験に合格する。去年の試験の時だって、「実力で負けちゃいなかったのに」と泣きじゃくる子供が大勢いた。その彼らを、マルカは冷ややかな眼差しで眺めていたのではないか。その理不尽な判定が、自分の身にも起こったというだけに過ぎない。とるに足らない小さな出来事のひとつ。


  (あたしは……落ちた)


  事実が、腑に落ちた。
  これで自分の人生は閉ざされてしまった。
  彼女の中のあらゆる激しい感情が、出口を求めて体中を暴れまわっていた。
  知らず、唸り声のような声を漏らしていた。熱い液体が、とめどなく目尻からこぼれだした。もう何年来、涙なんか流したこともなかったのに!
  身も世もなく、身体じゅうの悲しみを搾り出すかのように、獣のように唸った。チュアンの助ける手を乱暴に打ち払って、歩き出そうとするが、身体は平衡感覚を取り戻せないままふらふら右に左に揺れた。
  一刻も早くこんな不愉快な場所から帰りたい。とうとう終の棲家と定まってしまったあの薄汚い橋の下の隠れ家に帰って、毛布をひっかぶって寝よう。二三日もうだうだしていれば、いやなことなんか忘れてしまえるだろう。
  仲間たちの期待にこたえてやれなかった。そればかりかみっともなく泣き出して、バザーのマルカ姉の面目も丸つぶれだ。まったく、人生最悪の日だ。


  「帰ろう、こんなケタクソ悪いところにゃもう用はねえ」
  「船問屋のバカ息子め、お付きのババアがいなけりゃ、てめえで垂らした鼻水もかめねえ役立たずのくせに、ちくしょう、どうしてあんなやつが合格してマルカ姉が不合格なんだよ」
  「金よ、金! 試験の役人に金貨を樽いっぱい積んだのさ! それであっちは貴族さま、こっちは相変わらず残飯あさる野良犬のまんま!」


  仲間たちの叩きつけるような悪態が、現実を受け入れられずに坐り込んでいた周囲の子供たちの頬っつらをはたいたようだった。自分だけは違う、試験が終わったら自分は貴族に序せられているかもしれないとわけもなく期待していた子供たちは、結局それが夢でしかなかったことを認めるほかなかった。
  合格は金で買われた。それで合格枠の空席が埋められてしまった。
  公平公正であるはずの試験結果が、目の前で捻じ曲げられる。不合格となった子供たちの心も、それで捻じ曲げられた。


  「どうしておまえまでついてくるんだよ。呼ばれたんならさっさと行けよ」


  テテルが、ついてこようとしたチュアンに言葉を吐き捨てた。その足元に、威嚇するように唾を吐く。
  この黒髪の少年は、今日を境に彼らと別世界の住人になる。
  立ち止まった少年の眼差しが突き刺さるように背中に感じられて、マルカは振り返ることもできなかった。ひとりだけあっさりと合格して、哀れみを込めた目で彼女を見送っているであろう少年がうとましかった。いまは彼女を取り巻く世界そのものさえ、我慢ならないほどうとましかった。


  (こんな国なんか、蛮人に滅ぼされて消えてしまえばいいんだ)


  身分を既得権化して世襲する無能な貴族たち。
  能力もないのに貴族位を買う汚い凡人。
  その不正を正そうとしない無為無能の大人たち。
  こんな国なんか、一度消えてなくなってしまえばいいんだ。






  ひどいありさまだったいくさのほうが、どうやら一息ついたらしい。
  そんな噂が市民のあいだに流れて、人々のどこか張り詰めていた表情が緩み始めていた。最初は戦地から戻ってきた傷病兵の口から伝えられ、ついで王宮の布告として公式に報された。
  いくさが一時休戦……人類王国の領土が地上から消えてなくなるまで止まるとは思えなかった蛮族の進撃が、ウルクの都を目前にして一時にせよ足踏みとなったことは、人類王国の民人たちに胸をなでおろさせた。
  ゴセン将軍が敵の首領の首を討ち取ったのではと憶測が流れたが、やがてメナムの河畔に彼らが蛮族と忌み嫌う異形の戦士たちが姿をあらわすと、これが政治的な休戦状態なのだと知れた。
  人類王国は降伏したのか?
  未開の蛮族に膝を屈し、屈辱的な隷属を誓ったのか?
  それとも領土の割譲でも約したのか?
  誰もが「殺されるよりはマシ」と、これから起こるであろういろいろな不利益を諦観した思いで待ち構えていたが、蛮族の法外な要求が伝えられる代わりに「儀式」という耳慣れない言葉が市中に流れ始めると、人々は顔を見合わせた。


  「儀式…? 国王陛下と会合でも開くのか」


  王国と蛮族とのあいだで、何か停戦にまつわる儀式が執り行われるのだろうということだけは察しがついたが、その「儀式」の内容について知る者はほとんどなかった。
  まあ、なるようにしかならないだろう。何はともあれ、これでウルクの大街に戦火が及ぶ可能性が遠のいたことだけはたしかだ。
  その儀式というのが行われるのはまだ数日先の話のようであったから、救済もなく飢えに困窮していた難民たちは帰郷を申し出、品不足のひどかったバザーの露店主たちも街門に殺到した。ともかく食料が不足していた。
  しかし街門の衛兵は、鋭い槍を交差させて「城外への出入りは当面禁じられた」と繰り返した。


  「王国は戦争状態にある。城外の安全が確保されるまで、許可ある者以外みだりに城外に出ることはまかりならん!」


  メナムの対岸は、いまや蛮族たちの支配するところであり、いついかなるときにいくさが再開されないとも限らない。ただちに衝突が起ころうとも即応できるように、みだりに街門を開け放つわけにはいかない、というのである。
  いよいよ城内の食糧事情は悪化し、おりしも雨季を迎えつつあるメナム川も増水を始めたから、貧民の重要な食料源であった川魚の収穫も次第に減っていった。飢えた市民たちが穀物庫の開放を嘆願したが、王宮は一切聞く耳を持たなかった。


  「ちくしょう、このままじゃわしらは蛮族どもになぶり殺される前に、王宮の貴族どもに干物にされちまうぞ」
  「また貴族の用人がバザーの店を襲ったらしいよ。抵抗したら剣まで抜いたそうじゃないか! やつらに根こそぎやられちまう前に、食料をどこかに隠してしまわないと!」


  街路には、通行人さえ少なくなった。不用意に出歩いていると警邏の兵に捕まって、追いはぎ同然にみぐるみはがれてしまうことさえあった。休戦で時間があいたことで、返って人々の暮らしは困窮の度を深めた。


  「賎民どもが、そんなにも残飯が待ち遠しいか」


  貴族の屋敷の裏手門には、普段の浮浪児たちばかりでなく、飢えた下層民の大人たちも出てくる残飯を待ち構えてたむろしている。節制という美徳を忘れ去った貴族たちの食生活は平時となんら変わるところのない贅沢さである。下層民から奪い、暴力的に浪費する。
  ある貴族が「これでも食えるのか」と、残飯に小便をかけて出したという。それでも飢えた下層民たちは、われ先に群がってその残飯を口にした。


  「あそこまでされて、何でみんな黙ってんだ」


  ぜいぜいとあえぎながら、テテルは汗をぬぐって歩き出した。


  「最低の国だぜ」


  街のいたるところで、食料をめぐる醜い奪い合いが起こっている。本来なら、争わなくていい争いだった。貴族が生活の糧を奪っていくために、仲の良かった隣人同士が汚い残飯をめぐってなじりあい、殴りあう。


  「おい、見つかったか?」


  テテルの問いに、周りに散っている浮浪児仲間が首を振る。子供の顔は、どれも肉がそげて、目ばかりがぎらぎらと底光りしている。


  「ちくしょう、絶対になにかあったんだ! だから言ったんだ、小さいのはひとりで出歩くなって! スリンの歩いて回るあたりはあらかた見たけど、影も形もまったくねえ! まだ分かんねえのか、マルカ姉!」
  「このあたりのはずなんだけど……もっと北のほう……そうね、あっちだわ」


  額を押さえ、念じるようであったにんじん髪の少女が、街の一方を指し示した。息をはずませながらそちらのほうを見た浮浪児たちは、目を見開いて唖然とした。


  「あっちって……王宮じゃない」
  「もしかして、役人に捕まったのか?」


  浮浪児たちはみな、不吉な連想に思い当たったようであった。王宮といっても、それは夢に見るようなきらびやかな場所を思い描いたわけではない。警邏の役人に捕まったこそ泥が、死ぬほどひどい目にあわされるじめじめした尋問室である。
  スリンはまだ十にもならない子供である。しかし幼い子供であっても、ありえない話ではなかった。浮浪児たちは、常から役人たちに目の敵にされているのだ。


  「ほんとにこの中なのかよ、マルカ姉」
  「あたしの『感じ』が間違ってなけりゃね。たぶんこの中」


  強面の衛兵がかためる裏門を一旦通り過ぎ、やや離れたところで浮浪児たちは腰をおろした。衛兵のひとりが、彼らをじろりとにらんでいる。用でもなければ、近づくことも遠慮したい場所だった。
  石畳のうえにあぐらをかいたマルカは、爪を噛みながら王宮を見やった。ほかの子供たちもなにか恐ろしいものでも見るように高い城壁を見上げた。裏門のまわりにも、大勢の下層民が集まっていた。彼らも同じように、なにかの嫌疑で連行された身内を待つためにそこにいるのだろう。
  誰かのおなかが鳴った。浮浪児たちはみな、ひどい空腹だった。だが、それについてことさら口にするものはない。言えばよけいにおなかが空くと固く信じているのだ。


  「あれ、あいつ…」


  うずくまる下層民たちの中に、その子供を最初に見つけたのはマルカだった。独り言のようにつぶやいて、注視した。


  (貴族さまがなんでこんなところで油売ってるのよ)


  ウルガのフォー・チュアン。先の殿試で合格した少年である。せっかく貴族になったというのに、毛皮をつなぎ合わせた森人の服をまだ身に着けている。
  伝え聞いた噂では、多くの大貴族から養子縁組の話があって、そのどこかの門閥に入るのだろうといわれていた。貴族階級は超常の力を尊ぶがゆえに、才能ある新しい血を求めることがよくある。あの少年ほど抜きん出た力を目の当たりにすれば、貴族どころか王族さえも食指を動かすはずである。
  マルカは唐突に、身を焼くような恥ずかしさを覚えた。
  殿試のときにはずいぶんと偉そうな口をきいてしまったのに、いまはあちらが雲の上の貴族で、こっちはスカンピンの下層民である。
  その少年が、彼女の視線に気づいて顔をあげた。マルカは反射的に顔をそむけた。


  「おい、出てきたぜ」


  テテルが立ち上がると、他の子供たちも立ち上がった。待ち受ける大勢の下層民たちも、ざわめきながら立ち上がる。
  裏門が開いて、なかから半ば突き飛ばされるように、ひとりの男がよろめき出てきた。がたいの大きい男だったが、どんな拷問を受けたのか元の顔形が分からないほどに傷だらけで、案の定、裏門の階で足を取られて崩れ落ちた。


  「とうちゃん!」


  チュアンの傍らに坐り込んでいた子供が、いっさんに駆け寄った。チュアンもそれに従った。
  男は、その小さな女の子の父親らしかった。体重が倍はあろう大男に肩を貸して、チュアンが立ち上がった。子供ひとりには荷が重かろうと、下層民のひとりがもう片側から肩を貸した。


  「河港の人夫が、いったいなにやらかしたんだ?」まわりの会話が、聞くともなくマルカの耳に入ってくる。
  「飢え死にしそうな近所の子供らに食わすために、こっそり漁に出たらしい。それが衛兵に見つかってあのざまだ。ひでえもんだ」
  「そんで、手に入れた魚は、例のごとく役人たちが山分けにしたらしいぜ。汚ねえやつらだ……おおかた最初から取り上げるつもりで、城を出るのを見逃したに決まってる」


  (あのおっさん、あいつの身内なのかしら?)


  マルカが想像をめぐらせているあいだに、裏門からつぎつぎ人が解き放たれた。待っていた人々が、わっとそれに群がった。


  「スリンだ! マルカ姉、出てきたぜ!」


  浮浪児たちも立ち上がった。よろめき出たスリンは、鼻血をたらしながら仲間を見て笑って見せる。仲間に抱きかかえられたスリンの小さな体は小刻みに震え、かすれた呼吸音がそののどを鳴らしている。


  「…貴族が店から食べ物盗んでたから、スリンもやつらから盗んでやったの。そうしたら、つかまっちゃった」
  「どうしてそんな無茶したのさ」
  「お店の人たちが子供みたいに泣いてるから、少し返してあげようと思ったの」


  スリンは気丈に顔をあげて笑って見せたが、その足からはいまにも力が抜けそうになっている。役人によほどひどい仕打ちを受けたのだろう。まだこんなちっちゃな子供なのに。


  「さあ、散れ散れ!」


  衛兵がうるさげに槍を振り回した。その横柄な態度に、マルカはかっとした。


  「弱い下層民ばかり取り締まって、そのまえに貴族たちをなんとかしてみなさいよ! このくされやろうども!」


  彼女の怒気をすばやく察知したテテルが口を押さえなければ、こんどはマルカ自身が捕まっていたことだろう。仲間に抑えられて、もごもごとよく分からない声を発している彼女を見て、衛兵は顔をしかめたのみである。


  「早く行け!」


  二度目の警告に、浮浪児たちは退散した。






  オットー・トレゴレンは、肉を小さく切り分けるたびに、まず自分の口に運び、次の一切れを足もとの犬に投げ与えた。飼い主に似て肉付きのよい長毛種の犬は、肉片をすぐに飲み込むと、わんと一声鳴いて次の肉を要求した。
  トレゴレン侯爵家は、『百の目』といわれた大術者イワン・トレゴレンを遠祖に持つ、人類王国でも屈指の大貴族である。現当主、オットーは元老院の上卿のひとりであり、さきの防衛戦では一軍を率いて戦った将軍のひとりでもある。


  「今日の肉はなんの肉だ? 食糧不足とはいえ、もう少しまともなものも手に入るだろう」


  オットーと同じテーブルにつくのは、彼の正夫人と三人の子供である。オットーが口にするまでもなく、夫人はすでに肉料理の皿を下げさせているし、子供のほうも自分が食べるのではなくもっぱら他にもいる犬や猫に投げ与えている。


  「牛のものでございますが、なにぶん市中にも肉の類はすでに出回ってはおらず、この肉も手に入れられたのは僥倖という状態で」


  家令の返答はこんなものであったが、おそらく難民から無理やり奪い取った農耕牛をつぶしたのだろう。最近で手に入る食肉といえば、そうした難民の命の財産ともいえる数少ない家畜類か、野犬ぐらいである。貴族の横暴を間接的にしか知らなかった地方の難民たちは、なにが起こったのか分からぬうちに身ぐるみはがれたに違いない。
  その貴重な肉をおしげもなく犬に投げ与えながら、オットーはぶつぶつと文句を漏らした。


  「国王陛下もおたわむれが過ぎるというものだ」


  国王の布令が告知された。
  その内容に、いま王宮は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。


  「陛下まで『儀式』などという言葉を口にされる……蛮人相手の争いなど、兵士どもに任せておけばよいのだ。死体が五つほしいというなら、儀式などせずとも与えてやればよい。なにも貴族の尊い血を流す必要など…」
  「父上」


  オットーの三人目の息子、クラウドが背筋を伸ばして父親を見返している。
  今年の殿試に合格したばかりの末の息子の傲慢な眼差しに、オットーは顔をしかめた。人類王国の貴族社会では、長子相続などという習慣はなく、世継ぎはおおよそその才質で決まるといっていい。侯爵家の次期当主が今年十三歳になったこの少年であることは、暗黙のうちの決定事項であった。


  「初代人祖の御世は、そうそうたる高位術者たちによって、大陸に威を払い百族を伏させていたと法術院では教えています。剣や槍の力ではなく、法術によって力を示すことが王国の復権につながるのではありませんか? 今度の布令は、国王陛下のご英断であるとぼくは思います」
  「クラウド。おまえはあの巨大な野蛮人どもをじかに見ていないからそのようなことがいえるのだ。あの野蛮人どもの戦斧は、馬の胴体さえも一撃で両断するのだぞ」
  「鋼鉄に対して鋼鉄で挑もうとするからそうなるのです。法術の力であれば、まったく別の対し方があるのではないですか?」


  この才気走った末の息子を、オットーは毛嫌いしていた。家中の者たちが次期当主はこの息子に違いないと決めてかかっているようだが、オットーは貴族社会の慣習など無視して、長子のアルンに継がせようかと考えている。
  オットー自身、乏しい才質しか持たなかったために、子供のころは肩身の狭い思いをした。わが子供とはいえ、クラウドの見下したような冷ややかなまなざしは、彼の癇に障った。


  (こいつは、父親のわしも見下しているに違いない)


  クラウドと目が合うたびに、そのような確信をもつ。この末の息子は、術者を集めて殿試に合力させようという彼の提案を蹴り飛ばした。そうして殿試前よりもいっそう、この父親を冷ややかに見るようになった。
  たとえ合力しなかったとしても、トレゴレンの偉大な家名が、審議員たちにどれだけ影響力があるのか理解も及ばないらしい。まったく鼻持ちならないうえに、頭の血の巡りもよくないバカな息子である。


  「おまえはわしを批判しているのか?」
  「いえ…」


  やや言葉を濁したクラウドは、しかしまなざしを落とすことなく父親を見返している。


  「けしてそういうつもりでは」そう否定しつつも、内心では毛ほどにも反省していないふうのクラウドに、オットーは肉を押し切る手を止めた。


  クラウドは死んだ母親に最近よく似てきたその容貌に、子供らしい陽性の誇らしさをあふれさせている。念の力が強い娘がいると、先代が彼にあてがった新興貴族出身の女。気位の高かったその女は、存在自体が彼のプライドを傷つけずにはおかなかった。たしかに才質の豊かな女だった。


  「若いころは、念の力が万能であると思いがちなものだ」


  最後の肉片を塊のまま犬に与えて、オットーはナプキンをはずした。すかさず使用人が、オットーの前の食器を片付ける。


  「六卿会議は今回の『儀式』開催に反対の決を採る予定だ。『儀式』などと口にのぼせるばか者はすぐにいなくなるだろう。剣闘が見たいのなら、金を積めば町のあぶれ者ぐらいいくらでも名乗りをあげるだろう」
  「『儀式』は見世物の剣闘ではありません」


  父親の卑俗さにいらだったのか、クラウドの白い頬が紅潮した。まだ『儀式』の内容については、あまり公にはされていないというのに、この息子はずいぶんと知らなくていいことまで知っているようである。


  「誰に吹き込まれた? ゴセン卿のところの跳ね返り娘か」
  「もう噂は王宮じゅうに広がっています。ラッタネラは違います……彼女は」


  クラウドは言いよどみながら、こぶしを白くなるまで握り締めた。大将軍ゴセン卿の娘、ラッタネラ嬢に熱を上げていることぐらいが、この息子の弱みらしい弱みである。少し構いつけられたからといって、それが相手の好意だと勘違いするほどにこの息子は子供なのだ。宮廷一の美姫が、こんな子供を本気で相手にするものか。


  「国王陛下は王国のもっとも優れた才質をもつ術者を召集されると聞き及びました。事実上、そこに名を連ねた一族が、王宮で新たな席次を獲得するだろうともっぱらの噂です」
  「貴族ともあろう身が、小利を求めて卑しい剣奴の真似事をするのか? ばかばかしい」
  「『儀式』で敗北した種族は、下層民のごとく隷属せねばならないと聞きました。この『儀式』で負けてしまえば、きっと貴族のなんのとは言っていられなくなるでしょう!」


  性格のほうはいったいどちらに似たのだろう? あの女は少なくとも彼の命令には従順だった。この息子の傲慢さは、やはりかしづく下僕の数の多さが自然と培ったものだろう。


  「王国法がわれわれ第一身分に名誉と権利を与えたのは、その力をもって過ち多き民草を守り、教え導く義務を負ったからだと教えられています。いま国難に遭って、その義務を放棄するとしたなら、かならずや第一身分そのものも軽んぜられることとなります」
  「クラウド。おまえは誤解している。われら第一身分の権威は、生まれながらにして高貴な血を受け継ぐ者に聖霊がお与えくだされたものなのだ。王国法は、それを明文化しているにすぎない。『高貴な血』によって聖別されたわれわれは、生まれながらにして右手に支配の杖を握っているのだ」
  「しかし父上…」


  言い募ろうとするクラウドを制したのは、二人の兄だった。


  「多少才があるからといって、あまりのぼせあがるな。宮廷にはおまえなど及びもつかないほどの大術者がたくさんおられるんだ」
  「父上がああ言っておられる。分をわきまえて黙っていろ」


  長兄アルンと次兄イグニス。腹違いの兄たちをつまらない置物を見るように眺めたクラウドは、彼らを黙殺した。才が乏しいくせに不正で殿試に合格し、のうのうと特権を享受している兄たちは、クラウドにとって栄光ある『百の目』トレゴレン家の生きた汚点でしかなかった。
  オットーが立ち上がると、その雄大に突き出た下腹がテーブルに引っかかって、食器類が盛大な音を立てた。テーブルの上に乗っていたイグニスの飼い猫が、驚いて飛び上がった。


  「この料理を作った料理人は首にしろ。ひどい料理だ」


  そういい捨てて、オットーは食堂をあとにした。
  彼はおのれによく似てきた正妻の息子、アルンをとくに目に入れても痛くはないほど偏愛していた。才質に恵まれずに育つと、おのれの限界を冷静に見つめられるようになるものだ。
  『儀式』に名乗りをあげることは、勝つ保証もないカード遊びに全財産を賭けるような無謀な行為である。『儀式』での敗北は、おのれの超人性の否定、ひいては貴族としての破滅を意味している。先祖が残した家名という財産を放り出そうとは、いよいよあの息子には家督を継がすわけにはいくまい。


  「さて、側近の強硬派どもをどうやって転ばせるか…」


  宮廷でも名の通った貴族家は、どこも国王に名指しされるのではと戦々恐々である。『儀式』に参加するなどという投機的な行為は、身のほど知らずの新興貴族あたりにでもお鉢をまわしてやればよい。なかには身の丈も計算できないばか者もいることだろう。
  ともかく、わが家に危険を寄せ付けぬようしなくてはならない。
  屋敷の回り廊下に面した緑豊かな庭園から、城砦のごとき堅牢な石壁が立ち上がって外界を切り取っている。その向こう側から、下層民たちのざわめきがここまで聞こえてくる。
  第一身分とそうでない者たちとの世界の境界線である。
  尊き血を受け継いだおのれの運命にオットーは感謝しつつ、彼はまた思案に暮れた。






  この子は、このまま死ぬかもしれない。
  マルカは直感的にそう思い、それが遠くない未来にやってくる現実だと認識した。
  王宮から連れ帰ったスリンが高熱を発し、起き上がることもできなくなった。傷口から悪い風でも入ったのだろうか。傷口のまわりが腫れ上がり、スリンは痛みにずっと泣いている。医者に見せたくても、素寒貧の子供たちに治療費は支払えない。


  「お肉が食べたい」


  スリンは寝床から何度もせがんだ。病気のときは仲間に甘えていいことになっている。マルカは、スリンの願いをかなえてやろうと決意した。


  「で、どうやって手に入れるんだよ。肉だぜ、肉」


  そうテテルは抗議したが、やる気満々である。


  「貴族の屋敷にでも押し込むか? バザーになんざ、犬の肉だって置いてねえしよ」
  「外に捕りに行く。森に行けば生き物だっているわ。あいつだって、狩をして暮らしてたっていってたじゃない! あんな痩せっぽちの野郎にできて、このマルカさまにできないわけないわ!」


  マルカのいう「あいつ」とは、例の殿試で出会ったウルガのチュアンのことである。下層民の烙印を押されてしまった彼女たちにとって、上流社会への階段に足をかけたあの少年は、引き合いに出すのに格好の相手である。


  「町を出るのはたいしたことはないさ。だけど、取った獲物をどうやって持ち帰るんだよ? 結局、河港の人夫みたく、役人どもに横取りされてしまいさ!」
  「それでもなんとかやんのよ。なにがなんでもお肉をスリンに食べさせる」


  浮浪児たちは、計画の決行を決めた。
  仲間のうち、今年殿試を受けた年長者三人が、狩に出かけることになった。マルカにテテル、そしておしゃべりのリン。彼女たちは乏しい知識を総動員して、狩に必要だと思われる道具をかき集めて背負い込んだ。
  大鐘楼の一点鐘(午前二時)が鳴るころ、三人は町の表門を前にしていた。
  蛮族の軍勢を前にして、ウルクの警備は非常に厳重になっているが、殺気立っているのはもっぱら王国軍の兵隊たちのほうで、本来街門の通行を管理している役人たちなどは、門扉を開閉する時間以外は詰め所の中でえらそうにふんぞり返っている。役人たちは下級とはいえ貴族階級であり、汗を流して働くことが嫌いなのだ。
  一度深呼吸して、マルカは街門の詰め所へと向かった。
  予想が正しければ、出るだけならなんとかなるはずだ。例の河港の人夫のように。
  役人への届け物と称して包みをぶら下げながらまんまと詰め所までたどり着いたマルカたちは、通用門の暗がりに身を潜めて辺りをうかがった。殺気立った兵士たちにつかまれば、どんな目にあわされるか知れたものではない。心臓が胸のなかで跳ね回り、いまにも吐いてしまいそうだった。
  詰め所の窓からなかを覗くと、役人が二人いるのが見えた。ひとりは奥の長椅子に寝込み、残りのひとりが受付の椅子に座っている。椅子に座った役人も、うつらうつらとしているようだ。
  時間外に街門が開けられることはないが、その脇の小さな通用口は、役人の意思ひとつで開け閉めされる。
  マルカは唾を目じりにつけてから、よしとばかりに閉ざされた小さな窓を叩いた。いかにも善良な下層民を装うことが肝心である。あとで役人たちが強権ずくで手に入れた食べ物を横取りしたとしても、泣き寝入りしそうなお人よしの下層民。
  窓を二度叩いたとき、役人が目を覚ました。










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